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歴史概要

先史時代

グスク時代

アカハチの乱

琉球王府支配下

薩摩藩配下

近代

戦争時代

琉球政府

現代

尖閣諸島の歴史

歴史年表

―グスク時代―






12世紀〜14世紀末頃


人々は共同生活行うようになり、集団の支配者が現れ出した。土器や鉄器も使い始めた。支配者は按司といういわゆる豪族のようなもの。
けれど、八重山では一島一首長のような政治的な支配者はまだ存在しなかった。争いも少なく穏やかな日々が続いていた。

八重山の島々ではこの按司が使っていたグスク跡も遺跡として発見されている。

ただし、14世紀以前は歴史を記したものがまったくなく、どのような人物がいたか全く不明だ。
史実がわかりだすのは、15世紀ごろから。八重山の各島で按司が登場する。


※按司とは、アンジ、アジ、アズと読む。八重山ではアズと発音されていたらしい。この時代は大和の豪族のようなものだが、時代や場合によって王家の宮家、
 分家などをさしていうこともある。





14世紀末〜16世紀はじめ


1390年、宮古の安司、与那覇勢頭豊見親が、沖縄本土の中山王 察度(さつど)に入貢を行った。宮古はまだ二大勢力に分かれていたが、与那覇勢頭豊見親は宮古の首長として認められた。そうして宮古は中山の属国となり、毎年入貢を行うようになった。
宮古の首長は八重山の按司たち(誰かはわからない)に中山に入貢することを勧め、同じころ八重山の按司も中山への入貢するようになったという。

中山との文化交流が行われることにより、武器、文化や政治など、八重山の按司たちに大きな影響を与え、各地での按司たちの地方国家の生成がより加速することとなった。この時代の群勇(英雄)が多く生まれることとなる。

※中山王 察度は琉球王国のができる前の王朝。



■15世紀前半以前の群勇
15世紀前半の英雄は、有史前のことでもあり、神がかり的な伝説的な人物として言い伝えられている。群勇たちの遺跡や御嶽などもみられ、実在した人物である。遺跡後から、当時の権力大きさをうかがうこともできる。島を創始したものとされるものもいる。ただ、不明な部分も多く、年号などつじつまが合わないことも少なくない。

<15世紀前半の群勇>

人々

説明

竹富島 六山の神

竹島を創始したとする他金殿の他、竹富島では6つの神が話し合いにより、国を統治していた。

西表島の按司

祖内で力をふるっており、与那国を支配していた大竹租納堂儀佐がいる。 

波照間島の按司

 

波照間島ではゲートホラーという怪物的な按司がいた。

その他の島の按司

他の島々で、有史上は、按司の記録はない。
石垣島の島の歴史的な立場からすると、本来歴史が一番有史があってもおかしくないのだが、15世紀末になるまで石垣島では目立った按司登場していない 

宮古の按司

宮古島では八重山より歴史が進んでいた。オヤケアカハチの乱が始まる、100年以上前に、国を統一する戦い、目黒盛豊見親と佐多大人の戦いが行われていた。
その後、1390年には宮古の真佐久が中山に入貢したことにより、宮古の遠見親(首長)が八重山の按司にも入貢するように促していった。そのことが、八重山の按司の巨大化を加速させることになる。


竹富島の歴史-群勇たちの対峠-
波照間島の歴史-群勇たちの対峠-
西表島の歴史-群勇たちの対峠-
与那国島の歴史-群勇たちの対峠-







■15世紀末〜16世紀前半の群勇

各集落の按司は、やがて勢力を拡大させ、一島一首長にになって行く。この時代、八重山では歴史に残る有名な按司が登場する。そうして八重山を全島を舞台とした勢力争いになって行く。
そうして、宮古の空広と首里王府の牽制により、石垣島全土をほぼ統一したオヤケアカハチは、やがて空広と首里王府と戦うこととなる。

<15世紀末〜16世紀前半の群勇>
※主に石垣島の按司を記載

人物

統治した島・地域

説明

大屋久赤蜂
(オヤケアカハチ)


石垣島 大浜

(オヤケアカハチ)
波照間島で生まれた。(出生不明-1500年)
髪は赤く、体は大きく、力も強かった。ライバルの長田大主と同世代の人物で、南側の海岸で、長田大主と二人で相撲をとっていたという。
オヤケアカハチは、18歳になった時、島を出て、石垣島の大浜に移り住む。オヤケアカハチは、その後、群勇たちと戦い、民衆を従え、勢力を伸ばしていく。長田大主の妹、『クイツバ』を妻にしている。
オヤケアカハチの乱の前には、八重山をほぼ統一した勢力となった(西表島、与那国は除く)。
そうして、1500年、首里軍と戦うが、王府軍に敗れ、底原山にて没する。

長田大主



石垣島 石垣

(ナータフシュ)
(1456年-1517年)波照間島の出身。オヤケアカハチとは遊び友達で、ライバル的な存在。
成人になると、石垣島に渡る。石垣島に移住してからは、勢力を伸ばし、民衆を従え、石垣島の石垣地区(現在の離島桟橋周辺)を支配下におく。
オヤケアカハチの乱のときには、仲宗根豊見親のほうについた。
乱の前には、仲宗根豊見親に見方したために、弟2人(ナレトウ、ナレカサナリ)をアカハチに殺され、身の危険を感じた長田大主は、西表島の古見に逃げ潜んだ。そうして、首里王府軍が来ると、先導役となって、オヤケアカハチを征伐していく。
戦いの後、王府より古見首里大屋子に任ぜられ、八重山の頭職となる。

獅子嘉殿


波照間島 冨嘉

(ミウスク・シシカト(シシカドン))
波照間島の按司(豪族)。出生・没年月不明。父は明宇底於。母は也那志。豪傑で力持ちだったとある。
シシカトは首里王府に忠誠を誓っていた。周りの按司たちがアカハチに従っていく中、シシカトはアカハチには断固として従わなかった。
危険を感じたシシカトは、波照間島の山の中に身を隠す。
しかし、オヤケアカハチの子分、嵩茶(タケチャ)と黒石(コルセ)らによって小浜島に呼び出された時、
海岸にて、タケチャにアカハチ軍に加わるように迫られるが、シシカトの首里への忠誠の気持ちは強く、要請を断り、タケチャとコルセに殺された。

黒石

石垣島 大浜 

(コルセ)
アカハチの支配下。アカハチの要請に従うよう獅子嘉殿を説得したが、従わないため獅子嘉殿を殺害。 

嵩茶

石垣島 平得

(タケチャ)
アカハチの支配下。アカハチの要請に従うよう獅子嘉殿を説得したが、従わないため獅子嘉殿を殺害。 

仲間満慶山

 

石垣島 川平 

(なかま みつけいま)
(1467年-1500年)
石垣島の西部川平を支配していた按司。
戦前、アカハチと登野城の仲須目(ナカシィメー)で会見。アカハチの協力を求められるが合意しなかった。仲間満慶山は時代の大勢に従うことを主張した。仲間満慶山は馬に乗って一人で帰途に着くが、アカハチは名蔵のケーラ崎に落とし穴を掘って待ち受け、罠にはまった満慶山は、ここでアカハチに討ち果たされた。
現在、底地ビーチの南の岬には、ヤドゥピキヤー(屋戸引き屋)と呼ばれている場所があり仲間満慶山の居城跡とも言われている。

加那按司

 

石垣島 平久保

(かなあじ)
石垣島の北部平久保を支配していた按司。
馬を400頭も飼って勢力を誇っていた。1483年、慶来慶田城用緒に殺される。
琉球では他にも佐敷加那按司という人がいるため、区別するために平久保加那按司ともいう。

慶来慶田城用緒


 

西表島 祖納

(けらいけだぐすく ようちょ)
1500年頃の西表島西部の按司(豪族)。
慶来慶田城 用緒は、奥西表の外離島出身(先祖は平家とも)。祖納集落に移住し按司となる。
宮古島の仲宗根豊見親と同盟し、反琉球派である平久保の加那按司を滅ぼす。
石垣島にも勢力を伸ばし、長田大主とも同盟。オヤケアカハチの乱、与那国征伐の時には、戦いに関与したと思われる。
(ただし、オヤケアカハチの乱、与那国征伐に組した史文書上の明確なものない。)
オヤケアカハチの乱後、首里より西表首里大屋子に任命された。

サンアイ・イソバ

 

与那国島  

与那国島の有史上に出てくる最初の按司。1500年前後頃、与那国を統治していたものと思われる。
女性の按司で、巨体と怪力で知られた。島内には4人の兄弟を島内に配置し、与那国島を統治していた。
居城は、ティンダハナタにおき、村の様子を眺めていたという。
自らもよく働き、村の人の手本となり、村の人から人望を集めた。
また、大きなワラジを海に流し、島に巨人がいると思わせ、島に近付かないように図ったという。
没は不明(1510〜1516頃?)。宮古軍の最初の与那国征伐時には、宮古軍に抗戦し、宮古軍を撃退した。



波照間島の歴史-群勇たちの対峠-
西表島の歴史-群勇たちの対峠-
与那国島の歴史-群勇たちの対峠-


<15世紀後半の按司の勢力図>



※宮古島の空広(そらびー)とは、当時宮古島全土を統治していた按司。仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)のこと。


■16世紀前半以降の按司
オヤケハカハチの乱以降、しばらくは宮古の仲宗根豊見親(空広)の影響力が強かったが、仲宗根豊見親が死ぬと、それ以降、琉球王府の支配が強くなり、按司の力が小さくなっていく。按司(豪族)として住民たちを支配するのではなく、頭職や与人など役職をあたえられ琉球王府の役人っとしての地位に変わって行く。

この時代に目立った按司は、宮古でいえば空広の息子 三人兄弟など、八重山でいえば慶来慶田城用緒の嫡男 祖納当などの二世や、鬼虎征伐で目立った活躍をした按司であり、群勇としての影は小さくなって行くと共に、戦いのない時代となって行く。







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