人物
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説明
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大竹租納堂儀佐
<西表島西部、与那国島>
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(おおたけそないどうぎさ)
オヤケアカハチの時代より半世紀前の群勇。
大竹祖納堂儀佐は15世紀ごろ、西表島祖納の按司。大陸方面から鉄を輸入し鍛冶をしていたといわれ力をつけた。西表島と与那国島は古くから交易が盛んであり、1450年、与那国島を平定し、支配下におくことに成功したとされている。一夜にして与那国島まで舟を漕いで戻ってきたと言われている。サンアイイソバが与那国島を統治するのはその後となる。現在、西表島祖納部落で行われる豊年祭等の神行事は、彼を祀った大竹御嶽を中心に催されている。
慶来慶田城 用緒が登場してくるのは、大竹租納堂儀佐より後の時代。
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慶来慶田城 用緒
<西表島西部>
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(けらいけだぐすく ようちょ)
1500年頃の西表島西部の按司(豪族)。
慶来慶田城 用緒は、奥西表の外離島出身(先祖は平家とも)。祖納集落に移住し按司となる。
宮古島の仲宗根豊見親と同盟し、反琉球派である平久保の加那按司を滅ぼす。
石垣島にも勢力を伸ばし、長田大主とも同盟。オヤケアカハチの乱、与那国征伐の時には、戦いに関与したと思われる。
(ただし、オヤケアカハチの乱、与那国征伐に組した史文書上の明確なものない。)
オヤケアカハチの乱後、首里より西表首里大屋子に任命された。
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慶来慶田城 祖納当
<西表島西部>
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(けらいけだぐすく そないとう、祖納当用庶とも)
用緒の嫡男。初代与那国与人。与那国征伐(鬼虎征伐)では、西表島および八重山の島々の勇士を集め、宮古軍に加わる。与那国征伐に貢献した。
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長田大主
<西表島東部>
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(ながたふしゅ)
長田大主は波照間島出身、石垣島石垣村の按司だった。オヤケアカハチの乱では首里側に組す。乱の前に、同郷のオヤケアカハチを首里に従うように勧めたが、かえって弟2人を殺されてしまい、長田大主は、西表島古見に逃げる。1500年頃。
オヤケアカハチの乱では、首里軍の先導役を務め貢献した。
戦後、首里より古見大首里大屋子に任ぜられた。そののち、石垣頭職になっている。
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