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歴史年表

―薩摩藩支配下―





薩摩藩勢力下の琉球王朝
1609年〜1872年

琉球王国が薩摩藩の支配下となった。八重山は二重の従属を強いられる。人頭税に、災害や飢饉により、人々の生活は苦しかった。また穀物を確保するために、寄人政策により人々は強制移住をしいられることになる。

■琉球征伐
島津氏の薩摩藩は、1609年に琉球に攻め入る。
島津軍は奄美群島の島々を次々と政略し、沖縄本島北部、読谷村と攻略した後、那覇を新撃し、最後は首里城を取り囲んだ。琉球王府は降参した。
当時、戦国時代後の島津軍と琉球王府は軍事力で圧倒的差があり、琉球軍はなすすべがなかった。

これによって、奄美群島を薩摩藩に割譲することとなり、琉球政府は薩摩藩の支配下となる。


■琉球征伐の原因
琉球征伐の直接の原因は、以下と原因があったとされる。
 ・1602年、琉球船が仙台藩領に漂着して、徳川将軍の命により送還されたが、徳川将軍にお礼を言わなかったこと。
 ・豊臣秀吉が朝鮮出兵への際に薩摩藩が肩代わりした負担金を、琉球王府が返そうとせず、踏み倒そうとしたこと。

しかし、そうであったのは、戦を交えるためのこじつけで。島津藩として、以下の思惑があったものと思われる。
 ・薩摩藩の徳川幕府への立場を有利にするため。
 ・琉球へ明を通じて貿易を行うため
 ・領地の拡大
 ・薩摩藩内で琉球征伐をすることによりを薩摩藩まとめるため。


■戦後
島津家久は、首里王 尚寧をつれ、徳川秀忠に謁見させた。琉球は国家としてとめられたが、徳川幕府は薩摩藩へ琉球の支配権を与えられた。
また、奄美群島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)は薩摩藩の直轄領となった。
薩摩藩の支配下後は、八重山にも薩摩藩の役所もおかれていった。






1637年〜1902年


■人頭税の施行
琉球征伐後、八重山と宮古だけに、人頭税が施行される。八重山の人にとって人頭税は重くのしかかった。

1611年に、八重山の石高は5980石余と計算され、それにもとづいて貢租が決定された。
その後、1637年に宮古・八重山には貢租を人頭割に賦課・徴収する「人頭税」が実施される。それから20余年の間に、4回の人口調査が実施され、そのたび貢訴額も変動したが、1659年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。
人頭税は、1902年まで続いた。

人割の税であったため、いままでの租税とは違い、八重山の住民には人頭税が重くのしかかった。
八重山の住民は、石高をあげるように石垣島や西表島などに出稼ぎで田畑を耕すようになった。黒島や竹富島など、耕作に適していない場所の住民は強制移住させられることもあった。

人頭税を施行することによって、八重山は完全に琉球に支配下に入ったといえる。



■人頭税は悪税か?
現在の日本であれば報酬に対して税をかけるが、人頭税は人に対して頭割でかけるという税。生産量にかかわらず人に対してかけるもの。人頭税というだけで、悪税であったとは言えない。宮古の人頭税石のように、人頭税に関しては間違った歴史観がある。
その理由は、以下の通りだ。

 ・薩摩=人頭税のようにも捉えられるが、実際に人頭税を行ったのは琉球王府で、琉球=人頭税である。
  オヤケアカハチの乱以降も正しく納めない百姓に対して、人頭税という計算できる租税の仕組みが必要となった。
 ・人頭税は15才未満、50歳以上、妊婦など働けないものは免除などの配慮もされていた。
 ・世界的にも過去に人頭税で租税させた国は少なくない。
 ・沖縄本島地方に人頭税はなかった。しかし独自の地割システムで、集落単位で税をかけた。人数で割ることを考えれば同等である。
 ・人頭税は1902年に廃止されたが、それ以降の大日本帝国の税率とあまりかわらなかった。
 ・人頭税は地域や人によって税率が異なっていた。貢物として他のもの(例えばジュゴン)が加えられたり、関与する役人がより多くの税をとるものもいたためだ。

では、何故、八重山に重くのしかかったかといえば、
現在のようにサトウキビを一大産業として成功しているわけでもなく、耕地も少なく、八重山は貧しい場所であった。
また八重山という場所は、明和の大津波をはじめ、津波や地震、台風害など非常に多い場所でもあり、歴史上、飢饉や疫病の流行にたびたび見舞われている。
したがって、人頭税として頭割で納めなければならないということは、それだけの穀物の成果をあげなければならないということで、当時の八重山の人たちからみれば、とても厳しい税になったことは事実だ。


■宮古の人頭石
宮古島に人頭石というのがある。背丈がその石以上になったら、子供でも税を納めなければいけないという課税の目安であったというものだが、
歴史的事実はなく、近年、これは誤りではないかと指摘されている。



■寄人政策と住民の強制移住
首里王府は役人を通じて、住民たちを監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を行った。この開墾政策は、寄人政策と呼ばれ、人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地へ強制移住させて開墾に当たらせる政策のこと。
寄人政策は、親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、開墾によるつらい労働をともない、移住地がマラリア地帯であったために、命を亡くした人も少なくない。

寄人政策をはじめた当初は、八重山の各島から石垣島北部や西表島への強制移住が多かったが、後に石垣島島内の移動も多く行っている。

また、新城島や鳩間島など、西表島に近い島では、強制移住はせずに、船で通う通耕によって開墾もさせている。

<石垣島の強制移住>

当時の人口
(人)

移住人数
(人)

移住元

移住先

1651年 

5,235

-

-

-

1692年 

-

220

黒島

石垣島平得 

1711年 

-

-

黒島

石垣島平久保

1713年 

-

300

波照間島

石垣島白保

1732年 

1,048

425

黒島宮里

石垣島野底

1732年 

-

500

黒島と石垣島

石垣島桃里 

1734年 

-

-

竹富島と黒島

石垣島崎枝

1734年 

-

-

石垣島登野城

石垣島伊原間

1738年 

-

300

石垣島登野城

石垣島名蔵 

1753年 

-

100

石垣島平得

石垣島桴海 

1753年 

-

348

石垣島と竹富島

石垣島安良 

1757年 

-

1050

石垣島登野城

石垣島大川 

1757年 

-

968

石垣島石垣村

石垣島新川

1765年 

-

885

石垣島平得

石垣島真栄里

1768年 

-

200

石垣島白保

石垣島仲与銘

1771年 

-

167

黒島東筋

石垣島真栄里

1771年 

-

313

黒島仲本

石垣島伊原間

1771年 

-

413

波照間島

石垣島白保、大浜

1771年 

-

528

竹富島

石垣島冨崎

1785年 

-

-

石垣島冨崎

石垣島盛山

1857年 

-

50

黒島

石垣島桴海

※各島での移住内容は、各島の寄人政策の欄を参照のこと
※1771年の強制移住は、明和の大津波の復興計画によるもの
※1785年の盛山への移住は、冨崎が耕作地に適さなかったために再移住している








1771年


■明和の大津波
1771年4月24日、八重山地震発生。その後、明和の大津波が発生した。
津波は、3度もおし寄せ、多数の人を呑み込んだ。
宮良では最大の波の高さが85mにもなったという。

宮古八重山で約12,000人ほどの人がなくなった。
震源地に近かった石垣島で、人口約18,000人のうち、半分の約9,000人が亡くなった。
特にひどかったのは石垣島の南東部で、真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部などの集落は、ほとんど人がいなくなるぐらい壊滅的な被害だった。

また、津波後も、農地の多くが塩害にあったため、農産物ができず、飢餓や疫病が発生。発生前の人口の2/3になった。

<震源地と八重山の島の関係>




<明和の大津波の被害>

島名

死者行方不明者
(人)

人口(人)

津波前

津波後

減少率

石垣島

8,480

17,549

9,069

48.3%

竹富島

27

1,156

1,129

2.3%

小浜島

9

900

891

1.0%

黒島

293

1,195

902

24.5%

新城島

205

554

349

37.0%

鳩間島

2

489

487

0.4%

西表島

290

4,413

4,123

6.6%

波照間島

14

1,528

1,514

0.9%

与那国島

0

972

972

0.0%

合計

9,408

29,397

19,989

32.0%

※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用




■地震の震度
八重山の震度はおおむね、震度4強程度。震度4強でも津波の破壊力は壮絶だった。

■被害の少ない島
竹富島など、意外と、死者数が少ない島がある。地図から推測すると、石垣島南部と近い関係のある竹富島は同じように大きな被害がでてもおかしくないように思える。
しかし、竹富島は、竹富島周辺の環礁が大きく消波しブロックしてくれたために被害が少なかったといわれる。





■八重山の人口の推移
下表は、この時代の人口の推移である。明和の大津波以降、飢餓や災害、疫病、マラリアなどで、近代まで人口は減っている。
この時代、八重山は非常に住みにくい場所であった。










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