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―戦争時代―





1941年〜1945年


八重山は米軍の上陸はなく、空爆によって被害を受けた。
また、八重山では日本軍により移住させられたために起こった戦争マラリアにより大な被害を受けた。


■八重山への兵力増強
終戦の前の年1944年。米軍上陸への危機感を感じた日本軍は、八重山への軍事強化を行うために軍隊を派遣。当時八重山の人口が32000人に対し、軍隊は13000人を派遣した。あまりにも急な派遣に、八重山の人々の民家を接収し、豚や牛など、住民の食料の争奪を繰り返した。住民は別の地に強制移住させられるケースもあった。

現在八重山では、西表島の船浮要塞跡など、当時の面影を見ることができる。

船浮要塞跡(西表島船浮)
旧日本軍の要塞跡。
船浮の全ての住民を追い出し、
船浮に要塞をつくった。

旧日本軍の壕
壕は特攻艇震洋の倉庫として掘ったもの。
壕の前は、竜宮神社。






■八重山の空爆
八重山では、1944年10月12日(十・十空襲)、3機編隊の飛行機が石垣島ペーギナーの海軍飛行場(現、元石垣空港)を爆撃したのがはじまり。
2回めの空襲は、1944年12月に石垣島の軍施設を爆撃。3回目は1945年の元旦に行われた。いずれも軍事施設のみで民家への被害はなかった。
3月からは石垣島の集落にも爆弾が投下されるようになった。そうして爆撃も激しくなった。石垣町の多くは、近くの洞窟・畑小屋や町外れの墓地やなどへ、大浜村の多くは西表島へ避難した。そうして6月10日には駐屯する日本軍の命令により石垣住民は前山などの山岳地帯へ、また大浜住民は於茂登岳東山麓のブナタバルへ強制的に避難させられた。
戦争が進むにつれて駐屯軍に徴用される住民が多くなり、1945年5月には16才以上60才までの男子が徴用されたため、家に残るのは女・子供・老人・病弱者のみとなり、空襲も頻繁になったため耕作もできず、食糧不足、物資の欠品により、物価の高騰し、盗みが横行が多発した。
1945年3月以来、官公庁は沖縄戦中の沖縄県とは連絡がとれなくなり、その機能は失った。
警察署は職員が交代して犯人検挙にあたったが、検挙しても留置するのに食糧もなく、裁判をすることもできなかった。
諸学校の校舎の破壊と教員のマラリア羅漢、生徒の栄養失調、教科書不足により教育も停滞した。

※十・十空襲とは
1944年10月10日、米軍の空襲攻撃で南西諸島一帯を攻撃したもの。被害は那覇で一番多く、死者は数百名程度だが、建物の90%が消失した。別名那覇空襲とも呼ばれ、沖縄が初めて受けた大規模な空襲であった。八重山では、2日後の12日と13日に空襲を受け、石垣島の軍事飛行場、軍事施設、兵舎を中心に爆撃された。


■石垣事件
石垣島を空爆にきた米兵が日本軍の攻撃をうけて不時着。捕虜となった米兵3人は、生きたまま柱にくくりつけられ、「訓練」と称し、剣や銃で惨殺された。
戦後、このとき関与したものは、GHQの裁判により、責任者以下7名は死刑となっている。






■戦争マラリア
竹富島を除く各避難地はマラリア有病地であったため、マラリアが避難住民の間に爆発的に流行したとされる。
八重山が大きな被害があったのは、戦争マラリアであったこと。戦争マラリアとは、当時日本軍が、軍事要塞など軍の施設を作るため、また食糧などを確保するために、
石垣島北部や、西表島各所のマラリア菌の発生している場所に島の住民たちが強制移住させられ、マラリアに感染し多数の人が犠牲になっている。また終戦真近には空爆が頻繁になり、石垣島内でもマラリア発生地区に避難したことなどにより、マラリアの被害を受けている。
当時の八重山の住人36,000人うち、3647人がマラリアの死亡したという。また、これだけの死亡者数がでたのは、マラリアの抗マラリヤ薬が不足していることも原因であった。
戦争マラリアの被害は、米軍による被害ではなく、日本軍の日本人自身による被害である。

<八重山のマラリア状況(1945年における)>

場所

人口

罹患数

死亡者数

石垣島

19,050

10,060

2,496

竹富島

1,430

77

7

小浜島

1,079

862

124

黒島

1,345

128

19

新城島

255

144

24

波照間島

1,590

1,587

477

鳩間島

560

526

59

西表島

1,627

327

75

与那国島

4,745

3,171

366

八重山全体

31,681

16,882

3,647



死亡者数は、石垣が全体の約70%占めもっとも多い。
石垣島では、人口過密地域に多くの犠牲者が出ている。




<石垣島で特に死亡者の多かった地域(1945年における)>

場所

人口

死亡者数

石垣島登野城

3804

633

石垣島大川

2465

226

石垣島真栄里

239

88

石垣島平得

613

264

石垣島大浜

1866

479



(毎日新聞特別報道部、取材班『沖縄戦争マラリア事件』東方出版より)




八重山での空襲や艦包射撃による犠牲者は174だった。しかしマラリアは3674人もいる。


忘那石(西表島)
南風見田の浜にある忘那石。
波照間の全住民が移住させられ、
1/3の人がマラリアで命を落とした。







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