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群勇たちの対峠

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―群勇たちの対峠―






15世紀末

■群勇たちの対峠
与那国島でも、与那国島一島を支配する強い按司がでてくる。与那国島は古くから西表島西部との貿易がさかんで、西表島の按司、大竹租納堂儀佐が与那国島を平定し支配下においた。その後、オヤケアカハチの時代になると女首長 サンアイイソバが登場し、そののち鬼虎が登場する。

<与那国島の群勇>

人物

説明

大竹租納堂儀佐


(おおたけそないどうぎさ)
サンアイイソバより前の時代の群勇。
大竹祖納堂儀佐は15世紀ごろ、西表島祖納の按司。西表島と与那国島は古くから交易が盛んであり、
1450年、与那国島を平定し、支配下におくことに成功したとされている。一夜にして与那国島まで舟を漕いで戻ってきたと言われている。サンアイイソバが与那国島を統治するのはその後となる。
現在、西表島祖納部落で行われる豊年祭等の神行事は、彼を祀った大竹御嶽を中心に催されている。

サンアイイソバ


与那国島の有史上に出てくる最初の按司。1500年前後頃、与那国を統治していたものと思われる。
女性の按司で、巨体と怪力で知られた。島内には4人の兄弟を島内に配置し、与那国島を統治していた。
居城は、ティンダハナタにおき、村の様子を眺めていたという。
自らもよく働き、村の人の手本となり、村の人から人望を集めた。
また、大きなワラジを海に流し、島に巨人がいると思わせ、島に近付かないように図ったという。
没は不明(1510〜1516頃?)。宮古軍の最初の与那国征伐時には、宮古軍に抗戦し、宮古軍を撃退した。

鬼虎

(うにとら)
サンアイイソバの後に出てくる与那国島の按司。16世紀の前半に与那国を統治していたものと思われる。
鬼虎は宮古島の狩俣の出身。5歳の頃には5尺の身長があり形相がすごかった。宮古島が飢餓だったため、与那国商人が鬼虎を買って、
与那国に連れてかえった。そうして、与那国島で身長一丈五寸、勇力無双、智謀に長けた豪傑となった。
鬼虎は横暴なふるまいで人々に害を与えた(『多良間伝説』)ともあるが、定かではない。
サンアイイソバの生前には、サンアイイソバを政治的な手法も勉強していたと思われる。
サンアイイソバの死後、与那国島を統治する按司となった。
首里に従わず、2回目の与那国征伐(鬼虎征伐)によって、鬼虎は滅ぼされる。







1500年

■オヤケアカハチの乱
八重山じゅうの惨事となったオヤケアカハチの乱であるが、与那国島は琉球王府側にもアカハチ側にも与さなかった。
しかし、乱の後、琉球王府側の宮古軍が与那国島に攻めてくる。

八重山の歴史-オヤケアカハチの乱-






















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