島の散歩 島のレポート

ホーム おきなわ 島のレポート 竹富島 竹富島の歴史

概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

薩摩藩支配下

近代

太平洋戦争

現代

歴史年表

―群勇たちの対峠―




14世紀〜15世紀
■六人の群勇
他金殿が村を作ったあと、竹富島では六人の群勇が登場する。

竹富島は面積が狭く、耕地が少ないので、領地争いの紛争をなくすために、六人の群勇たちが話し合いをし、共存の道を選んだ。
その群勇たちの行いは、現在でも、竹富島の伝統的な祭り『種取祭(タナドゥサイ)』で語り継がれている。

六人の群勇たちは、いつの時代か正確な時期はわからない。オヤケアカハチの時代のころよりは前の時代だと思われる。


<竹富島六人の群勇>

人物

説明

根原金殿

<玻座間村>

(ネーレカンドゥ)             
屋久島から渡来した根原金殿は、ミシャシ(美崎)付近の土地を所有し、玻座間村の祖とされている。
北の美崎のアイヌソイ・イルノソイなどの大きな岩の近くの海を領有した。
根原カンドゥ 一番勢力が強く、徳も高かったとされている。
他金殿一族を追い出して、新里村に陣を構えた。

『栗の神』

祀られている御嶽:玻座間御嶽(ウーリャオン)

他金殿

<花城(ハナック)村>

(タキドゥン)         
沖縄本島から渡来した他金殿は、花城村の祖とされ、力比べや船漕ぎ競争などが得意だった。
花城村の他金殿は、土地よりも海を所望し、竹富島の東〜南の海の所有者になった。
他金殿は六山の中で一番最初に来島した首長で、当時竹富島は『タキドゥンの島』と呼ばれていた。『タケトミ島』の名前の由来もここにある。
他金殿一族はその後、根原金殿に追いやられ、花城村に移動したとされる。

『海の神』

祀られている御嶽:花城御嶽(ハナックオン)

久間原発金

<久間原(クマーラ)村>

(クマーラハツカネ)   
沖縄本島から渡来した久間原発金は、久間原村の祖とされ、植林に努めた。
久間原村の久間原ハツは、ヒシャール・クムイ・カイジなどの土地を所有したが、耕作地として不向きだったので、植林に励んだ。
南西の海を領有した。

『山の神』

祀られている御嶽:久間原御嶽(クマーラオン)

塩川殿

<波利若(バイヤ)村>

(スーカードゥン)            
徳之島から渡来した塩川殿は、波利若村の祖とされ、6人の酋長のうち最も若かった。
波利若村の塩川殿は欲がなく、新里村の一角のわずかな土地と竹富島の東北の海を領有した。
しかも塩川殿は、一番若かったので「雨の神」になって、先輩の酋長たちの作物の生長を祈った。

『雨の神』

祀られている御嶽:波利若御嶽(バイヤーオン)

新志花重成

<仲筋村>

(アラシハナカサナリ)          
沖縄本島(または大和の国)から渡来した新志花重成は、仲筋村の祖とされ、麦の耕作に努めた。
仲筋村の新志花重成は、南端のブサシというところに城を築いていたが、地形が悪く、水にも困り、島の中央部の土地を所有し、仲筋部落を立てた。竹富島の北西の海を領有した。新志花重成の愛犬が仲筋井戸を発見したという伝承がある。また新志花重成は自分の見張台に、ンブル丘を築き上げたという。

『麦の神』

祀られている御嶽:仲筋御嶽(サージオン)

幸本節瓦

<幸本村>

(コーントフシンガーラ)           
久米島から渡来した幸本節瓦は、幸本村の祖としてされ、大豆・小豆の耕作に努めた。
幸本村の幸本節瓦は、竹富島の西方のフージャヌクミ付近の土地を所有し、豆類を栽培した。竹富島の西の海を領有した。
根原金殿の妹を妻にめとり、一番早く、根原金殿に同調した。

『豆の神』

祀られている御嶽:幸本御嶽(コントゥオン)





15世紀末
■オヤケアカハチの乱
15世紀末、群勇たちが対峠したこの時代の最後に、大きな戦いが起こる。
八重山を統治していたオヤケアカハチと、首里王府軍との戦いであった。


八重山の歴史-オヤケアカハチの乱-


この戦いに竹富島の六山の神たちは関係なく、六山の神はアカハチより前の時代の人たちだと思われる。
竹富島で、オヤケアカハチの乱と関与する人物は、竹富島の西塘で、西塘は、オヤケアカハチの乱の時、才能を首里軍に見込まれ、首里へと連行される。










概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

薩摩藩支配下

近代

太平洋戦争

現代

歴史年表

サイトマップ 更新履歴 リンク リンクについて 問い合わせ