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概要と先史時代

群勇たちの対峠

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歴史年表

―群勇たちの対峠―




14世紀末〜15世紀
■群勇たちの対峠

中山との文化交流が行われることにより、武器、文化や政治など、八重山の按司たちに大きな影響を与え、各地での按司たちの地方国家の生成がより加速することとなった。この時代の群勇(英雄)が多く生まれることとなる。

早くから集落形成されたと思われる波照間島では、他の島に比べ、多くの群勇たちの伝説が残っている。


<波照間島の群勇>

人物

説明

ゲートホラー


(ゲートゥ・ホラー)
ゲートホラーは1450年頃、オヤケアカハチが活躍していたころより前の人物だ。
しかし古文書史料には全く登場せず、伝説であり、一説には、17世紀頃、18世紀ともあり、生誕は定かではない。
新城島の上地と下地の間に漂着したオランダ船に乗っていたオランダ人が島の人たちに助けられ、しばらく島で暮らしていた。たまたま島を訪れた波照間島の加屋本の娘が恋仲になり、ゲートホラーが生まれたといわれている。

ゲートホラーは、伝説には、髪は赤毛、鼻が高く、体は大きく、超人的な力をもつ人物だったとある。いくつもの大岩を動かし、20俵の米俵を抱え運び、太い竹を帯のように腰に巻いていたという。自分の畑の前に、あっという間に石を積んで暴風壁を造ったり、畑に通ずる道に、あっという間に石を入れ舗装したという。台風の前は、他の人が海から船を引き上げている間に、田からあっという間に稲を刈り取った。その稲は俵一俵分もあったという。大和人や中国人のいる場で、彼の力試しが催されたという。

ゲートホラーは、少年時代には山原船のコックとして唐に渡ったことがあり、首里へ行って琉球国王に謁見したこともあるという。また、波照間島には集落はずれに「ホーラー武士の石」として、ゲートホラーの、大きな墓(幅約1m、高さ約1,5mぐらい)が残っている。従って、島では相応の位置をしめ、有力な按司(豪族)の一人だったようである。

また、新城島に漂着したオランダ人との間の子供というのは、オヤケアカハチの出生の一説にもなっており、ゲートホラーとオヤケアカハチが同一人物だったという奇説もある。

オヤケアカハチ

<石垣島大浜>

波照間島で生まれた。(出生不明-1500年)
出生は不明だが、長田大主と同じ頃に生まれたものと思われる。島の伝説によると、波照間島の海岸に捨てられていた子だという。ゲートホラーと同じように、波照間島の娘と、新城島で漂流したオランダ人との間の子供という説もある。
髪は赤く、体は大きく、力も強かった。ライバルの長田大主と同世代の人物で、南側の海岸で、長田大主と二人で相撲をとっていたという。
オヤケアカハチは、18歳になった時、島を出て、石垣島の大浜に移り住む。オヤケアカハチは、その後、群勇たちと戦い、民衆を従え、勢力を伸ばしていく。長田大主の妹、『クイツバ』を妻にしている。
そうして、宮古の仲宗根豊見親や、琉球王府と対抗するようになった。
オヤケアカハチの乱の前には、八重山をほぼ統一した勢力となった(西表島、与那国は除く)。
そうして、1500年、八重山の大参事、オヤケアカハチの乱を引き起こすこととなるのである。
オヤケアカハチは、王府軍に敗れ、底原山にて没する。

オヤケアカハチは、波照間島では、『アカブザ』と呼ばれ、卑下した呼ばれ方をしているが、石垣島の大浜では村の英雄として慰霊祭が行われている。現在は、英雄として扱われているのが一般的だ。

長田大主

<石垣村、古見村>

(ナータフシュ)
波照間島の出身。(1456年-1517年)
宮古の仲宗根豊見親が波照間島にきたときに、島の娘と出来た子供といわれているが、史実はあいまいな部分があり、定かではない。
母は、前野(メーニ)のナビャー。幼少のころは、マッツァーと呼ばれていた。オヤケアカハチと同世代で、オヤケアカハチとは遊び友達で、ライバル的な存在であった。
成人になると、石垣島に渡る。石垣島に移住してからは、勢力を伸ばし、民衆を従え、石垣島の石垣地区(現在の離島桟橋周辺)を支配下におく。

オヤケアカハチの乱のときには、仲宗根豊見親のほうについた。
乱の前には、仲宗根豊見親に見方したために、弟2人(ナレトウ、ナレカサナリ)をアカハチに殺され、身の危険を感じた長田大主は、西表島の古見に逃げ潜んだ。そうして、首里王府軍が来ると、先導役となって、オヤケアカハチを征伐していく。
戦いの後、王府より古見首里大屋子に任ぜられ、八重山の頭職となる。

明宇底獅子嘉殿

<波照間島>

(ミウスク・シシカト(シシカドン))
波照間島の按司(豪族)。出生・没年月不明。父は明宇底於。母は也那志。豪傑で力持ちだったとある。
シシカトは首里王府に忠誠を誓っていた。周りの按司たちがアカハチに従っていく中、シシカトはアカハチには断固として従わなかった。
危険を感じたシシカトは、波照間島の山の中に身を隠す。
しかし、オヤケアカハチの子分、嵩茶(タケチャ)と黒石(コルセ)らによって小浜島に呼び出された時、
海岸にて、タケチャにアカハチ軍に加わるように迫られるが、シシカトの首里への忠誠の気持ちは強く、要請を断り、タケチャとコルセに殺された。

シシカトの死後、琉球王府はシシカトの子供たちに褒賞を与え、
のちに、長男 赤真屋を屋安古与人。次男 古真屋を新本与人、三男 遠戸与人に任じている。そして三人の娘も要職に任じている。(与人とは、頭職の補佐役になる要職)。
シシカトの居住地は、美底御嶽との説があるが、別の場所だという説もあり、定かではない。

ウヤシマ・アガナダ

<波照間島>

(ウヤミンシヤアカタナ)
出生・没年月不明。アガナダは、1522年、第二回目の与那国征伐で、活躍した人物。波照間島の按司。
与那国征伐時には波照間島は中継基地であり、仲宗根豊見親軍の食糧調達や、補充徴兵の収集に貢献した。
しかし、与那国島の戦いでは、住民たちを虐殺し、殺し方も人の目を繰り抜くなどひどく、悪行の限りを尽くして帰ってきた。
そのため、戦後も殺された人々の霊に呪われていたという伝説が残る。









アカハチ誕生の地の碑
アカハチが生まれた場所には碑が立っている

長田お嶽
勝ったほうの長田大主は、
御嶽として祀られた。





15世紀末
■オヤケアカハチの乱
15世紀末、群勇たちが対峠したこの時代の最後に、大きな戦いが起こる。
波照間島出身で八重山を統治していたオヤケアカハチ軍と、首里王府軍との戦いであった。

八重山の歴史-オヤケアカハチの乱-









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