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尖閣諸島の歴史

歴史年表

―尖閣諸島の歴史―








■尖閣諸島とは
尖閣諸島(せんかくしょとう)は、東シナ海の南西部にある島々。石垣島北方約130〜150kmの、北緯25度43分 - 56分、東経123度27分 - 124度34分の海域に点在するちらばる島々。日本の住所は石垣市となる。8つの島々からなり、最大の魚釣島で小浜島の半分の大きさ。次に大きい久場島でも鳩間島と同じぐらいの大きさで、残りは小さな島々がつらなる。平地が少なく、人が住みつくのには厳しいものがある。明治時代に日本が領地とし、人が住んでいた時期もあったが、1940年以降無人に。
国境の島ゆえか、現在中国や台湾との領土問題に巻き込まれている。

<尖閣諸島の位置>

※一番東の大正島は離れており、多良間島や水納島の真北にあたる。



<尖閣諸島の島々>

島の名前

面積

説明

魚釣島
(うおつりじま)

3.82ku

尖閣諸島で最大の島。明治時代、古賀辰四郎の開拓により、島の西岸に鰹節工場がつくられた島。1940年の事業中止まで、人が住んでいた。現在無人島。現在も魚釣灯台がある。

久場島
(くばじま)

0.91ku

尖閣諸島で2番目に大きい島。この島の南西部には鰹節工場や、アホウドリの羽根の工場があった。1940年の事業中止まで、人が住んでいた。現在無人島。米軍の射爆場に指定されていたが、1978年以降使用されていない。

大正島
(たいしょうとう)

0.06ku

無人島。米軍の射爆場に指定されていたが、1978年以降使用されていない。久米島に近いこともあり、かつては、久米赤島とも呼ばれていた。
外観は砲撃の跡があり、痛々しい様相。

北小島
(きたこじま) 

0.31ku

魚釣島の東南方向にある無人島。

南小島
(みなみこじま)

0.40ku

魚釣島の東南東方向にある無人島。別名鳥島。かつてはこの島にも鰹節工場があった。

沖の北岩
(おきのきたいわ)

0.05ku

魚釣島の北東方向、約6kmにある無人島。東の岩、西の岩の2つの岩礁からなる。

沖の南岩山
(おきのみなみいわ) 

0.01ku

魚釣島の東方向、約7kmにある無人島。

飛瀬
(とびせ) 

0.01ku

魚釣島の東方向、約6kmにある無人島。






■無人の時代
江戸時代までは無人であった。
それぞれ歴史上では以下のように島をとらえている。

 ・琉球では、明との貿易を行うにあたって、明に行く途中に見える島ということでとらえていた。
 ・1560年前後に中国で刊行された「籌海図編」や「日本一鑑」には、尖閣諸島が福建省や台湾の一部と読み取れる記述がある。


■開拓の歴史
1885年(明治18年)、日本が何度も現地調査を行った結果、どこの国にも含まれない無人島であることを確認(清の支配下にないことを)。
そうして、1895年(明治28年)。日本の領土に編入された。
1896年(明治29年)に、尖閣諸島に調査団を派遣した古賀辰四郎氏が、魚釣島など四島を30年間無料貸与される許可を受けた。
そうして、豊富な資金力をもつ古賀辰四郎氏による開拓がはじまる。尖閣諸島は、鰹節工場を基幹産業として発展していく。
息子である古賀善次郎氏に引き継ぎ、一時は240人を超える人が、魚釣島に移住していたという。
そうして、大正15年に無償貸与期間は終わったが、引き続き1年契約で貸与を続けていき、1931年(昭和7年)には、古賀氏が四島を買い取った。
しかし、戦争直前の1940年。燃料が配給制となってしまったため、渡島ができず、事業を廃止し、島は無人化した。
以降、この島に人が定住することはなかった。

そうして、1945年、皮肉にも漂流現場として、人がサバイバル生活を送ることとなる。



■尖閣諸島戦時遭難事件
終戦間際、悲劇があった。
1945年7月3日に、石垣島から台湾に民間人を疎開させる途中、日本の小型船2隻がアメリカ軍機の攻撃を受け、無人島だった尖閣諸島に漂着した。50日後に救出されたが、先頭と飢餓により約半数が死亡した。

船団は、180人が乗り込み、女性と子供、高齢者が殆どで、朝鮮人や台湾人もいた。空襲をさけるべく、直接台湾に行くのではなく、尖閣諸島の近くを航行していく予定だった。
しかし航行中に米軍飛行機に発見され、3回の爆撃と、機銃掃射を行われた。
死傷者は多数出て、船は炎上、航行不能になった。一艘は沈没し、もう一艘は浸水しながらもなんとかもちなおし、伝馬船が下ろされたが、体力が消耗し泳げないものも多かったため、多くの人が溺死した。

物語は更に続く。
尖閣諸島で古賀商店の鰹節製造事業に携わったものが乗船しており、魚釣島に行くことになった。(7月4日)。船団とは別に遭難していた、日本兵6名と合流した。
当初は、残った食糧を出し合って共同生活していたが、2週間ほどで尽きてしまった。以後は、ビロウや草、そしてネズミやヤドカリなどを食べて飢えを防いだという。
連日、島への空襲もあったが、運よく被害者はでなかった。
そうして、救助を呼ぶための計画がなされた。海岸線にあった難破船の残骸を資材としてサバニを作成し、陸軍経験者など約8名で決死隊を組み、8月12日島を出発。
8月14日に、石垣島川平に到着した。
そうして、8月15日、事態を知った日本軍は魚釣島へ救助船を向かわせ、生存者は無事保護され帰還した。救助された安堵感により、亡くなった人もいたという。
皮肉にも救助されたときには、もう終戦を迎えた、8月18日のことだった。


■領有をめぐる紛争
沖縄が日本に返還された以降、尖閣諸島は領有をめぐる紛争が日本・台湾・中国で行われている。







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