―琉球王府支配下―
15世紀前半
首里から遠い八重山は、当時の船では行くだけでも大変で、実質的には空広の支配下であった。
■2回目の与那国征伐
空広と長男金盛は、1522年の与那国征伐で、サンアイイソバに変わる与那国の首長 鬼虎を討伐し、与那国も支配下においた。
ただ、与那国征伐の帰途、金盛は死んでしまい、高齢だった空広も後に死んでしまう。
(空広は死亡は1519年死亡とあるが、死亡年は不正確。2回目の与那国征伐には参加している。)
■空広一族から、琉球王府へ
1524年、竹富大首里八重山大屋子として、琉球王府から西塘が竹富島に送られる。
竹富大首里八重山大屋子は実質的に八重山を統括するための役職であった。
空広が死んだこと、また西塘を送り込むことで、空広一族の影響は徐々に排除され、八重山は実質的にも琉球王府の支配下となっていく。
西塘は竹富島出身であったが1500年に首里に渡り(つれられ)、建築などで大きな功績を残し、竹富大首里八重山大屋子として八重山に戻ってきている。
西塘は統治機関を竹富島の トゥールングック(城)から、蔵元としてカイジ浜前に移し、八重山を統括した。
その後、蔵元が竹富島では交通が不便なため、1543年に蔵元を石垣島に移した。
■琉球王府にとっても八重山
琉球王国は、八重山を統治する前に奄美大島をはじめとする、奄美群島を支配下においていた。
八重山は奄美大島よりも遠く、南方系の民俗でもあり、小さな島々であり収益も望めず、奄美などの島々に比べ興味は薄かったと思われる。
八重山は、あくまでも従属国のような位置づけてあった。
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<ティンダハナタ(与那国島)>
与那国の首長 鬼虎の前には、
ティンダハナタを城をかまえた、
女首長『サンアイイソバ』がいた。
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<西塘御嶽(竹富島)>
八重山を納めた西塘は、
竹富島の集落中心部に祀られている。
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<カイジ浜(竹富島)>
蔵元の前にはカイジ浜は、
八重山各所にいくための港だった。
でも今は猫の楽園。
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■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。
寄人政策で強制移住が行われたが、うまくいかなかった原因もマラリア感染による被害という原因が大きい。
マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。
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