―先史時代―
12世紀以前
■先史時代
八重山の先史時代は発掘された遺跡から、主に有土器時代と、無土器時代に分けられる。
有土器時代とは、石器を使っていた時代、無土器時代とは石器を使っていなかった時代となる。
通常は、無土器時代があって有土器時代となるのが当たり前のように思えるが、何故だか八重山では逆であった。
八重山の有土器時代は有土器文化をもった人の渡来があってはじまり、その後約800年の空白の時代があって、無土器文化が始まったものと思われる。
無土器文化は12世紀頃まで続く。
沖縄本土では、大和と同じように縄文時代、弥生時代とあったのに対して、八重山は明らかに異なる。
有土器時代の石器の形は、南方系でみられるような形のものが多く、八重山の人のルーツが、フィリピンなどの南方系の民俗が多く渡来してきたものと考えられる。
<先史時代の主な遺跡>
遺跡名
|
時代 |
仲間第二貝塚(西表島)
下田原貝塚(波照間島)
川平ナータチビ遺跡(石垣島)
崎枝赤崎遺跡(石垣島)
フーネ遺跡(石垣島)
太田原遺跡(石垣島)
|
有土器時代 |
仲間第一貝塚(西表島) 大泊浜貝塚(波照間島)
吹通川河口貝塚(石垣島)
川平低地貝塚(石垣島)
崎枝赤崎貝塚(石垣島)
|
無土器貝塚 |
※上記の中で、下田原貝塚(波照間島)は八重山で最も古い遺跡とされている。
■大和との交流
無土器時代では鉄が発見され、遺跡から『開元通寶』の貨幣が発見されていること。
また沖縄の文献にはないが、大和の文献からで石垣島と交流があったことが記されており、古い時代から大和との交流があったことがうかがえる。
【大和の文献から見る八重山の先史時代】
・714年 『日本書紀』に石垣島の『才覚』(しがき→いしがき)という人が大和に行くと記される。
・1185年 平家の落武者が石垣島に来島。
|
沖縄の人のルーツは、大和の縄文人が移動してきたと見られる。このことは、港川遺跡などの縄文人の遺跡があること、沖縄の人や大和のDNAの鑑定から推定できる。
しかし、八重山人のルーツは、沖縄本島のなどと少し違う。有土器時代の石器の形は、南方系でみられるような形のものが多く、八重山の人のルーツが、フィリピンなどの南方系の民俗が多く渡来してきたものと考えられている。
<日本の民俗のルーツ>
■2万4000年前の人
2011年石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で、約2万4000年前の人骨が確認された。
頭・足・腕など9点の人骨が、2万4000年前の地層から発掘されている。
沖縄の島々では、石灰岩層の断層が多く、かなり古い人骨の化石が残りやすいとされていた。この人骨の発見は、日本国内最古のもの。
これによって、石垣島ではかなり古い時代から人が住んでいたことが証明された。
|