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―オヤケアカハチの乱―





15世紀末



八重山の各地の豪族が集結し、宮古の勢力と戦うことになる。

■戦前
当時、宮古島全土を統一し、首長になっていた空広(仲宗根豊見親)は、八重山にも力を及ぼそうとしていた。八重山ではまだ按司たちがばらばらで、各地で対等しており、空広に対抗できる力はなかった。首里への入貢に従わない按司たちに、空広は圧力をかけていく。

そこで、オヤケアカハチは按司たちを束ね大きな勢力を作っていく。空広に従おうとする勢力は排除していった。空広味方する獅子嘉殿や仲間満慶山は討伐され、石垣の長田大主の弟たちは殺され、長田大主は古見に逃げていった。
こうしてオヤケアカハチは石垣島全土をほぼ手中にした。竹富や波照間、小浜島なども勢力下にあった。また、オヤケアカハチは貢物をせまる空広に対して、宮古を攻めようともしたという。

<オヤケアカハチの乱の登場人物>






■戦争開始
1500年、空広は琉球王府の力をかり、琉球王府の援軍とともに石垣島を攻め、オヤケアカハチと戦う。
首里の軍団は、筆頭大里親雲上や安波根里主直張などを頭とし、久米島の君南風(ノロ)をのせ、46艘、3000人の軍団であった。

2月12日に石垣沖に到着。古見に逃げていた長田大主は先導役となって、空広と首里王府の官軍を誘導していった。
そうして戦いが始まる。
しかし、海岸沿いに陣取るアカハチ軍を前に、上陸することもできず、官軍は苦慮した。当初はオヤケアカハチ軍は優勢であった。

しかし2月19日、夜を狙って首里王府軍が登野城と新川の二手に分かれ上陸する。
オヤケアカハチはこの多勢の作戦に応じることができず、2日間の攻防の末、ついには負けてしまう。
オヤケアカハチは、底原山に逃んこんだところを、討たれてしまった。

この戦いは先島諸島の島々では、日本の戦国時代と同じように、熱く語り継がれている。


<勢力図と首里軍の攻勢>










■オヤケアカハチの乱の戦後
八重山は琉球王府下入ったが、首里から遠い八重山は実質的には空広一族の支配下となる。
八重山の城は竹富島のトゥールングック(豊見城)におかれ、八重山を統括していった。


 宮古   ・・・空広(宮古頭職)→金盛(宮古頭)
 八重山 ・・・祭金(八重山頭職)→知利真良(八重山頭職)→長田大主(古見大首里大屋子→石垣頭職)
 
 ※祭金(マチリンガニ)は空広の次男。知利真良(チリマラ)は三男。

地域

統治者

宮古

空広(宮古頭職)→金盛(宮古頭職)

                                       →仲宗根玄屯(平良頭職)
                                       →真普武殿(下地頭職)

八重山


祭金(八重山頭職)→知利真良(八重山頭職)
            →長田大主(古見大首里大屋子→石垣頭職)

                                       →西塘

※金盛、祭金、知利真良は空広の嫡男、次男、三男。玄屯は末子。長田大主は妾の子。
 宮古は2頭制になってから、八重山は西塘の時代になってから完全に仲宗根氏の支配力はなくなって行く。


■久米島の君南風
久米島のノロ 君南風は、戦いに貢献したことから、久米島で最高位のノロとして認められた。

■妻の古市
アカハチの妻、古市は戦いの後、捕えられ斬首された。


■与那国討伐
オヤケアカハチの乱へ八重山に行ったおりに、宮古軍による与那国征伐が行われている。宮古軍空広の嫡男、金盛らが実行。けれど与那国島の首長サンアイイソバの撃退にあい、失敗して逃げ帰った。
与那国は島は、徐々に首里王府下に導いていくが、与那国の首長鬼虎が勢力を増してきたため、1522年、今度は空広自らが出向き、鬼虎を征伐し、与那国島を完全に統治下においた。

与那国島の歴史-与那国征伐-



■各地にある群勇たちの史跡

アカハチの乱を偲ぶ史跡が、八重山、宮古諸島各所にある。

     

オヤケアカハチの碑(石垣島)

オヤケアカハチ誕生の地(波照間島)> 

長田大主の御嶽(波照間島)

仲宗根豊見親の墓(宮古島)











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