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―琉球政府―





1945年-1972年



■琉球政府
戦後、米軍により統治されることとなった。1952年に琉球当初は、トカラと奄美、沖縄、宮古、八重山と4つに区分され、統治された。米軍の統治を反対する民衆に対して、試行錯誤に行政機関を考慮していき、1952年に琉球政府が発足する。
琉球はもともと独立した国家であって、日本が占領したものであるから、米軍は日本に返還することは考えず、沖縄を独立国家としようと考えていた、
その裏には、米軍が沖縄東アジアの軍事拠点としておこうとした経緯もある。
沖縄の人たちは米軍統治のこの時代を『アメリカ世(あめりかよ)』とも言っている。

沖縄とともに、北緯30度以南は、米軍統治ということで、トカラ列島は分断され、トカラの7島と、奄美群島の島々も統治下となったが、トカラと奄美は1950年代当初にいち早く日本に返還されている。






<琉球政府の旗>

琉球政府時代の幻の国旗。
星のマークが希望を意味し、3色のラインは、青は平和、白は自由、赤は熱情を意味している。
(1950年1月25日設定)

※民衆の独立意識させるために米軍によって、設定されたが、殆ど使用されることはなかった。



■米軍統治後の沖縄
米軍に統治された沖縄は悲惨な状態であった。焼け野原の中、戦後の直後は、米軍による虐殺、強盗、強姦、争奪などが各地で行われた。敗戦国であるがゆえに、米軍が起こした犯罪は処罰されることはなかった。
民衆の土地は強制的に買収され、米軍基地、軍道へと変わって行く。むろん、米軍による情報操作も当たり前だった。

政治の世界では、民衆の選挙により支庁長、知事、議員がおかれたが、沖縄独立を目指す米軍にとって都合の悪いことは破棄された。琉球政府になってからは、たびたび日本への沖縄返還議決が可決されたが、そのたびに破棄されたのだった。米軍に従わない政治家は、変わるように仕組まれたり。政治犯として処罰された。
有名な政治家で、瀬長亀次郎がいる。瀬長亀次郎は米軍にとっては政治犯であったが、沖縄県民にとっては英雄だ。米軍に弾圧されながらも、沖縄の本土返還を導いていく。

そうして、1960年代から沖縄返還運動が高まって行く。朝鮮動乱、ベトナム戦争と戦争が続き、沖縄から爆撃機が頻繁に離着陸するようになると、民衆による『反戦運動』も大きくなっていき、『日本返還運動』がより高まって行く。

1965年8月19日に日本の総理大臣の佐藤栄作首相が来沖し、沖縄県民に言った。「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と。


■琉球政府の経済
琉球政府の経済状態は、あまり潤滑ではなかった。焼け野原になった沖縄は復興まで時間がかかった。収容所で暮らす人も多く、食糧不足に苦労した。経済も完全に破綻しており、窃盗が多かったという。
沖縄の企業は、日本本土と切り離されたことで、地元企業は多く育ったが、日本の大企業から切り離され、脆弱で小さな企業しか育たなかった。
そのため、失業率が高く、その影響は現在でも影響しているといわれる。
米軍基地のど米軍の施設に雇用が確保されただけである。


■沖縄返還
1971年沖縄返還協定調印、その後1972年5月15日に日本へ復帰した。







■八重山の占領軍の上陸
沖縄の終戦が1945年6月23日。日本の終戦が8月15日であったにもかかわらず、占領軍の八重山への上陸は12月23日までは、なかった。
八重山へは、1945年12月23日、米海軍チェース少佐、ルイス軍医少佐他11人が戦車揚陸艦で石垣島に上陸した。八重山市庁代理、各町村長と自治会幹部に対して米軍政を布くことを宣言し、命令した。敗戦当初の八重山は、八重山庁をおくことで沖縄とは別の独立した行政機関をもうけた。


■八重山共和国
歴史上ではあまり語られていないが、八重山支庁を置く前に、『八重山共和国』というものが成立した。八重山の自治会による政権で、占領軍のチェース少佐も承認した共和国であった。八重山共和国という名前は、正式に名乗ったわけでもなく、日本軍にも米軍にも支配されない一時的な独立の共和国ができたものの比喩であるが、今もこの名前で語り継がれている。

八重山の官公庁は、沖縄戦中の1945年3月以降、県と連絡がとれなくなり、事実上機能を失った。
戦後の食糧不足、物資の欠品により、物価の高騰し、盗みが横行が多発した。警察署は職員が交代して犯人検挙にあたったが、検挙しても留置するのに食糧もなく、裁判をすることもできなかった。諸学校の校舎の破壊と教員のマラリア羅漢、生徒の栄養失調、教科書不足により教育も停滞した。
このような無政府状態に対して、元議員、元校長、元農協の有志15名が、社会を再建したいという使命感で、自治会を設立した。

そうして米軍占領軍上陸後の1945年12月27日、自治会40名が石垣市役所で支庁長選挙をおこない、宮良長祥氏を選出した。12月28日に、チェース少佐は、宮良氏を支庁長に任命。八重山共和国ができた。チェース少佐は八重山共和国の組織化を支持し、宮良氏は翌日より、警察署長、郵便局長、総務部長・・・など各役職を決めていった。
しかし、年明けの1月15日には米軍政下の八重山支庁が発足した。八重山共和国はたった23日間の八重山共和国であった。


■八重山への集団移住(八重山戦後開拓移民)
米軍統治下沖縄政府は戦後、まだまだ未開の地が残る石垣島と西表島への、集団の開拓民をおくることを計画した。この時の数は合計3,385名にも上る。
焼け野原になった沖縄本島を中心に、宮古島、多良間島などからも入植者があったという。

時期

移民の種類

移民の規模

移住規模

1952年〜1957年

琉球政府計画移民

681戸 3,142名
(石垣島14地区、西表島4地区)

琉球政府が募集した計画移民。

1948年〜1951年

群島別政府期集団移民

101戸 243名
(石垣島3地区、西表島1地区)

民政府、群島政府計画のもとに入植。

1945年〜

単独自由移民

1955年現在、
石垣島156戸、西表島133戸

終戦まもないころから相次いだ、自由に移民した人たち。

敗戦後の沖縄は、ハワイ、米国、ブラジルなどへ海外移民も多かった。1948年〜1957年に限れば海外移民数7,016名で、八重山での移民数が海外移民数は3,385名であり、八重山への移民数がとても多いということがわかる。


■石垣港の開港
それまでの港は、貨物などの大型船は、すべて沖合で停泊し、小型船で運搬するという不便なものであった。しかし1960年新石垣港が開港され、大型船も港につけるようになった。港周辺は美崎町と名付けられた。








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