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概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

集落の形成

近代

太平洋戦争

琉球王府

現代

歴史年表

―太平洋戦争―




1941年〜1945年
■太平洋戦争
八重山では上陸戦は行われず、西表島島では他の島のように空撃も少なかった。
しかし、1945年3月以降は他の島と同様、空爆が激しくなり大変であった。機能しなくなった官公庁に、無法地帯、食糧不足と辛い時期があった。


■日本軍の配備
終戦の前の年1944年。米軍上陸への危機感を感じた日本軍は、八重山への軍事強化を行うために軍隊を派遣。当時八重山の人口が32000人に対し、軍隊は13000人を派遣した。あまりにも急な派遣に、八重山の人々の民家を接収し、豚や牛など、住民の食料の争奪を繰り返した。住民は別の地に強制移住させられるケースもあった。

西表島の船浮要塞跡など、当時の面影を見ることができる。
船浮では、船浮要塞跡を造るために住民全員が、白浜などに強制移住させられた。また白浜では慰安所が設けられたという。
その他、祖納など軍事施設を造るために強制移住させられた住民は少なくない。
また、八重山の他の島々からも、西表島へ強制移住させられた島もある。
このことは戦争マラリアへの被害に通じる。

■空襲
1945(昭和20)年3月末から6月末へかけて、民間への米軍の艦砲射撃が始まり、大きな被害を受けた。

日本軍要塞要塞跡
船浮。トンネルを抜けると要塞跡がある。

兵舎跡
船浮の兵舎跡地。今は雑談場所。













1945年
■戦争マラリア
戦争時の避難地は西表島や石垣島などマラリア有病地であったため、マラリアが八重山の避難住民の間に爆発的に流行した。
そのため、多くの人がマラリアで命を落とすこととなる。
特に、波照間島からは西表島豊原に、住民全員が強制移住させられ、住民のほとんどがマラリアに罹患し、当時の人口の1/3の人が命を落とすという悲劇がおきている。
この悲劇は、現在 西表島の南部、南風見田の浜に、『忘那石』があり、この悲劇が語り継がれている。

<八重山のマラリア状況(1945年における)>

場所

人口

罹患数

死亡者数

石垣島

19,050

10,060

2,496

竹富島

1,430

77

7

小浜島

1,079

862

124

黒島

1,345

128

19

新城島

255

144

24

波照間島

1,590

1,587

477

鳩間島

560

526

59

西表島

1,627

327

75

与那国島

4,745

3,171

366

八重山全体

31,681

16,882

3,647


波照間島の歴史-戦争とマラリア-








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