―琉球政府―
1945年〜1972年
■琉球政府
戦後、米軍により統治されることとなった。1952年に琉球当初は、トカラと奄美、沖縄、宮古、八重山と4つに区分され、統治された。米軍の統治を反対する民衆に対して、試行錯誤に行政機関を考慮していき、1952年に琉球政府が発足する。
琉球はもともと独立した国家であって、日本が占領したものであるから、米軍は日本に返還することは考えず、沖縄を独立国家としようと考えていた、
その裏には、米軍が沖縄東アジアの軍事拠点としておこうとした経緯もある。
沖縄の人たちは米軍統治のこの時代を『アメリカ世(あめりかよ)』とも言っている。
軍国主義から民主主義へ大転換を強いられるなか西表島も変化していく。
八重山の歴史 -琉球政府-
■八重山への占領軍
戦後、米軍が初めて八重山に訪れたのは、もう戦争が、とっくに終った12月23日になっていた。石垣島への上陸だ。米海軍チェース少佐他、11名の軍人が、米軍支配下に置くことを宣言している。
■戦後の食糧難
敗戦後の八重山では、台湾・南洋・沖縄本島・日本本土から、出稼ぎの島民や軍人・軍属などが続々と帰還し、この時期食糧難であった。
■西表島への集団移住(八重山戦後開拓移民)
米軍統治下沖縄政府は戦後、まだまだ未開の地が残る石垣島と西表島への、集団の開拓民をおくることを計画した。この時の数は合計3,385名にも上る。
焼け野原になった沖縄本島を中心に、宮古島、多良間島などからも入植者があったという。
大原・大富・上原・船浦など、現在の西表島の多くの集落の形成は、この時期から始まったものだ。
時期
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移民の種類
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移民の規模
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移住規模
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1952年〜1957年
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琉球政府計画移民
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681戸 3,142名 (石垣島14地区、西表島4地区)
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琉球政府が募集した計画移民。
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1948年〜1951年
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群島別政府期集団移民
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101戸 243名 (石垣島3地区、西表島1地区)
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民政府、群島政府計画のもとに入植。
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1945年〜
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単独自由移民
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1955年現在、 石垣島156戸、西表島133戸
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終戦まもないころから相次いだ、自由に移民した人たち。
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敗戦後の沖縄は、ハワイ、米国、ブラジルなどへ海外移民も多かった。1948年〜1957年に限れば海外移民数7,016名で、八重山での移民数が海外移民数は3,385名であり、八重山への移民数がとても多いということがわかる。
西表島の歴史 -集落の形成-
■イリオモテヤマネコ
1967年、イリオモテヤマネコが発表される。今まで多くの人が、西表島にヤマネコがいるといわれ、捕獲されていなかったが、学者や地元の人々により複数の個体のサンプルを確保。学会に発表され、1977年、日本の国の特別天然記念物に指定された。
■集落の廃村
戦後、マラリア撲滅がされ、移住民により上原など新しい集落が次々できた裏腹に、古い西表島をささえてきた集落が廃村してしまう。
1947年には崎山集落、1971年に網取集落が廃村となっている。
どちらも交通の便が悪く、過疎化により衰退していった。
また、由布島の集落は、台風害により、対岸の美崎へ集団移住したが、一家族だけ由布島に残り、熱帯植物園というテーマパークを成功させ、集落の存続に成功している。
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