島の散歩 島のレポート

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概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

集落の形成

近代

太平洋戦争

琉球王府

現代

歴史年表

―近代―




1867年〜1941年
■近代

■大日本帝国への琉球処分
琉球は沖縄となり、八重山も沖縄の一部として日本になった。
1867年、江戸幕府から日本政府へ大政奉還。琉球は、5年後1872年に琉球藩として日本になり、琉球王 尚泰王は、琉球藩王になった。そうして尚泰王は華族になり、1879年、廃藩置県により琉球は沖縄県となった。
西表島も八重山の島と同じように近代の道を歩んでいく。


■明治以降の市町村
西表島の市町村への所属は以下となる。

◇1896年(明治29年):八重山郡
 ・石垣間切り・・・石垣村、新川村、名蔵村、崎枝村、川平村、桴海村(ふかい)、竹富村、仲間村、黒島村、新城村、南風見村
 ・大浜間切り・・・大浜村、登野城村、真栄里村、平得村、大川村、上原村、西表村、崎山村、波照間村
 ・宮良間切り・・・宮良村、白保村、伊原間村、安良村、平久保村、野底村、古見村、高那村、小浜村、鳩間村

※間切りに関しては、1750年以降から同じ。
※西表島は島内でも3つの間切りに分かれていた。


◇1908年(明治4年)〜:八重山村
  八重山諸島全域で1村

◇1914年(大正3年)〜:竹富村
  現在の竹富町と同じ領域

◇1947年(昭和22年)〜:竹富町
  現在の竹富町と同じ領域

※他の島々から交通不便との苦情が絶えず、1938年には村役場を石垣町登野城へ移転する。








■西表島炭鉱(西表島と炭鉱の歴史)
西表島では、明治初期よりはじめられた炭鉱の歴史がある。
炭鉱は内離島と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川流域に多く分布していた。

内離島と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川

炭鉱開発まで:
江戸時代末期、奥西表地区で炭鉱があることが噂されていた。そうして、明治初期政府要人をともなって炭鉱の調査を行い、政府より炭鉱開発を行うことを提案した。
そうして1886年、三井物産会社は西表島西部や内離地区で炭鉱採掘の開始した。囚人 200余を集めて採掘を始めた。
しかし西表島はマラリア地区であったため、3年間で100余名の死者を出し、のこりの人たちもマラリアに罹患。そのため1889年には事業を中止した。

初期:
1891年、大倉組などいくつかの企業が開発に手掛けたがすぐに撤退。1906年、その後、沖縄炭礦や琉球炭礦によって、炭鉱採掘を再開し日露戦争や第一次世界大戦の高景気にのって、炭鉱の運営に成功している。

最盛期:
その後、大正末期から昭和初期にかけて、西表島西部や内離地区に西表炭坑が開かれた。最盛期には1400名もいたという。西表島西部の白浜集落はこのときできた。
そうして、戦争が進んでいくと、一旦中断されたが、戦後は米軍統治下により再び再開。1960年時代にともない休止した。

■宇多良炭鉱
宇多良炭鉱は西表島炭鉱のうちのひとつ。浦内川流域にあった炭鉱。
1935年から開発し、採掘が開始された。採掘により、当時の浦内の集落ができた。400名収容する独身寮や、売店、映画を上映する娯楽施設、診療施設や大浴場などもあった。衛生面もよくマラリア感染率も他の炭鉱より圧倒的に低かったという。
しかし、戦争時代には労働条件も過酷になり、1943年には休止状態になった。
西表島では、現在もそのレンガ造りの支柱など、宇多良炭鉱跡を見ることができる。宇多良炭鉱跡は2007年、近代化遺跡群に指定された。


浦内川
広い広い浦内川、もう少し上流に
その昔、宇多良炭鉱の街があった。

東郷平八郎上陸の地
東郷平八郎は日露戦争の折に、
西表島にお茶を飲みに立ちよった。








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