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―現代―




1945年〜1972年

■琉球政府
戦後、米軍により統治されることとなった。1952年に琉球当初は、トカラと奄美、沖縄、宮古、八重山と4つに区分され、統治された。米軍の統治を反対する民衆に対して、試行錯誤に行政機関を考慮していき、1952年に琉球政府が発足する。
琉球はもともと独立した国家であって、日本が占領したものであるから、米軍は日本に返還することは考えず、沖縄を独立国家としようと考えていた、
その裏には、米軍が沖縄東アジアの軍事拠点としておこうとした経緯もある。
沖縄の人たちは米軍統治のこの時代を『アメリカ世(あめりかよ)』とも言っている。

軍国主義から民主主義へ大転換を強いられるなか与那国島も変化していく。1948年(昭和23年)に町へ昇格し与那国町となる。

八重山の歴史 -琉球政府-



■与那国島への占領軍
1945年8月、日本の敗戦後、与那国島への占領軍の上陸は石垣島など八重山より少し早い1945年10月。米軍の占領軍がナンタ浜に上陸した。もの凄いエンジンの音で、沖にリバティー(上陸用舟艇)停泊、水陸両用の戦車が二台、乗っていた米兵達はライフル銃を持ち次々と上陸していったという。
与那国島の人たちはパニックになった。人々は逃げまくった。
しかし、米軍の拡声器からの「心配ないから皆家に帰りなさーい」呼びかけにより、島は落ち着いて行ったという。

■台湾との密取引
終戦後の混乱期、与那国島には台湾からの密輸入品が流れ込み、島は大変栄えた。
戦後直後は大陸などからの引き上げ者で人口は5、6千人にまで膨れ、食料難にあえんだ。しかし、しばらくして1947年に久部良しに闇市ができた。与那国島は沖縄本島からの米軍の横流しの物品や日本軍の武器、台湾や香港などの闇船が持ち込む食料品・米・たばこ・雑貨など物品を交換する場所で、中継地が与那国島で、密貿易港が久部良港あった。
琉球政府にいたるまでの5年間は、人口は激増し、町勢要覧「よなぐに」は1万2千人余りとあるが、流動人口を含めると、人口は2万5千人〜3万人にもなったという。飲み屋が38軒、食堂は100軒、理髪店は7軒、ホステスは200人余りを数えたという。地元の久部良の人は荷物を運ぶ人で、1日働くだけで10日分の賃金ぐらいあったというのだから、かなり潤ったのだ。
しかし、琉球政府ができてからは、あっという間に闇取引もなくなり、繁栄もしなくなっていった。

久部良港
定期船の出る久部良港は、
昔は密貿易の場所だった









1972年〜

■沖縄返還
1972年、5月14日。日本に沖縄が返還された。現在に至る。


■ベトナム難民
1977年、2度にわたって、ベトナム難民が、漂着している。(5月27人、9月86人など)
ベトナムの人たちは小船を使って、国を脱出した。与那国島の人たは、ベトナムの人を長い期間にわたって、手厚く保護した。
その後、日本政府は兵庫県の姫路市と神奈川県に大和市に難民定住促進センターを開設し、日本語教育などを実施したという。

■海底遺跡
1986年、ダイバーによって新川鼻沖の改定で、海底遺跡のような地形が発見されて話題となった。
遺跡は宮殿の跡のようにも見え人工的に加工されたとも見え海底遺跡と見る説がある。遠い昔の文明が、何らかの形で土地が沈降し、海底に沈んだともいわれている。現在は、観光客の人気スポットになっている。


■中国の弾道ミサイル事件
1996年、与那国島から約60キロメートルの海上に中国から発射された弾道ミサイル1基が着弾した。もともとは中国が台湾で行われる選挙に対して圧力をかけるために発射されたもの。台湾も、中国に対抗した軍事演習として、与那国島の沖合で軍事演習を計画するなどした。与那国島では緊張が走り、当時は自衛隊や海上保安庁によるパトロールが行われた。

■テレビ『Dr.コトー診療所』
2003年、与那国島をロケ地に、離島に赴任した医師の活躍をドラマ化した『Dr.コトー診療所』が放映された。
物語では、与那国島は、八重山の架空の島『志木那島』とされたが、与那国島の美しい景観があらゆるシーンに組み込まれ、人々を魅了した。Dr.コトー診療所は、2003年は連続ドラマとして、その後2004年には特別番組として、2006年には再び連続ドラマとして放映されている。

Drコート診療所
Drコト―診療所の建物は
今だに観光素材として有益性が高い

与那国空港
那覇と石垣から定期便の出る与那国は
行くのがたやすくなった


■与那国島の人口の推移(戦後)
与那国島は急激に人口が減っている。戦後の人口は最大12,000人(1947年)。そうしてしばらくの間は5,000人を超えていた人口も、現在は1,570人(2013年3月現在)となった。
与那国は、これといった大きな産業もなく、診療所も1つ、大きなスーパーもない。近隣で一番大きな島は石垣島で、約100km程先にある。何せ(東京から有人の場所で)日本で一番遠い場所である。慶良間や石垣島のようにIターン者を呼んで栄えるにも遠すぎるなど不都合な点がある。
子供達は中学校を卒業してしまうと、石垣島や那覇の高校へ行くため、島を出てしまう。その子供たちが、島に戻ってくるかどうかはわからない。
かつて、台湾との貿易で栄えたころのように、過疎化への脱却に向けて見出してほしいものだ。

         <与那国島の人口推移(戦後)>

                            単位:人














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