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―琉球王府―





1500年〜1867年

■戦後
空広軍が勝利したことで、与那国島を含めた八重山が全て琉球王府の支配下となる。
それ以降の与那国島の歴史は不明。
1611年 薩摩藩士毛利元親が来島 検地竿入れを行うまでの間与那国島に目立った口伝は残されていない



■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。

マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。





1637年〜1903年

■人頭税
1637年、世に名高い悪税『人頭税』が、八重山と宮古だけに、施行された。人頭税は作物の状況に関係なく、人の数の頭割で徴収されるというもの。人頭税によって八重山の人々は重い年貢に苦しむことになる。労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額はたまるばかりであったという。
ただ、1651年ころ、人口は500人弱で、与那国島の納税者は124人しかいなかった。
その後、4回人口調査を行い、1659年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。

■悲しい伝説
与那国島では、人頭税に苦しんだ。税を軽減するために、人減らしをした悲惨な史跡がある。

・久部良割(クブラバリ)
 クブラバリは幅が3〜5mある岩の裂け目。久部良地区にある。村の妊婦を集めてはこの岩の裂け目を飛ばせ、ほとんどの妊婦が転落死、またはうまく飛び越えても流産はまぬがれなかったという。
・人桝田(トゥングダ)
 クブラバリを実施しても人が減らないため、島の男子を突然召集し、時間内にトゥングダという田んぼに入れなかったも、あふれたものは島の人たちの合意のもと惨殺された。現在はサトウキビ畑になっている。
・南与那国島
 与那国島にも波照間島のパイパティローマ(南波照間島)の伝説と同じように、重税に苦しみ、ハイドゥナン(南与那国島)を求めて逃亡したという伝説が残る。
 与那国島の比川集落の人々が、南方にある楽園、ハイドゥナンに向かって逃亡したと言われている。

■カイダー文字
与那国島では、徴税はカイダー文字が使われていた。
カイダー文字とは古くから与那国島で使われていた象形文字で、カイダー文字は「カイダ・ディ」または「カイダージ」とも呼ばれている。
文字を知らない与那国島の島民に対して、役人が徴税のための数量計算に使っていたようで、その後、日常生活の中にも取り入れられるようになったといわれている。



クブラバリ
妊婦たちはこの裂け目を飛んだ

与那国伝統工芸館
重い人頭税。
女は変わりに『与那国織』を納めていた












■明和の大津波
1771年、八重山で大きな被害を受けた明和の大津波だが、遠い与那国では被害は少なかった。宮古八重山で12,000人の人がなくなった大惨事であったが、与那国島は建物の倒壊などの被害はでておらず、死者もいなかった。

<明和の大津波の被害>

島名

死者行方不明者
(人)

人口(人)

津波前

津波後

減少率

石垣島

8,480

17,549

9,069

48.3%

竹富島

27

1,156

1,129

2.3%

小浜島

9

900

891

1.0%

黒島

293

1,195

902

24.5%

新城島

205

554

349

37.0%

鳩間島

2

489

487

0.4%

西表島

290

4,413

4,123

6.6%

波照間島

14

1,528

1,514

0.9%

与那国島

0

972

972

0.0%

合計

9,408

29,397

19,989

32.0%

※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用




■村の復興
19世紀になると、疲弊した八重山の島々の、村落の功労者に対して、首里王府が表彰を行っている。
与那国島でも複数の人たちが賞されている。

・1796年 八重山与那国村の宇江城、米・芋を餓者に与へて以て人命を済ふの善行を褒賞す。
・1801年 与那国島祖納村の船筑松原仁屋の善行を嘉奨し、筑登之之位を賜ふ。
・1835年 八重山の所属与那国島の登野城仁屋の善行を褒嘉して以て爵位を賜ふ。
・1854年 八重山島与那国村の松田を褒嘉して爵位を賞賜す。
・1855年 八重山島与那国村の登野城を褒嘉して爵位を賞賜す。
・1862年 八重山島与那国村の宮良仁屋、喜佐麻宮良を褒嘉して爵位を賜ふ。
・1864年 八重山与那国村の多和津登野城を褒嘉して爵位を賜ふ。




■与那国島の人口の推移(琉球時代)
与那国島は人口が急増する。人頭税の検知で調べられた時は124人(1651年)で、明治初期には、1736人(1880年)となる。
与那国島は明和の大津波で大きな被害を受けず、他の八重山の島々のように、津波の1771年以降、人口が減り続けたということもない。耕作も出来、水もあり、琉球人が明・清や台湾との交易の途中に立ち寄る便利な島であったともあることから、大きく人口が増える要素がこの時代にあったのだ。
逆に、この急激な人口増が、人頭税の人減らしのためのクブラバリの悲しい伝説などが生まれたのかもしれない。



         <与那国島の人口推移(琉球時代)>

                            単位:人











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