―琉球王府支配下―
16世紀〜
■琉球王国支配下時代
アカハチの乱の後、八重山は琉球王国の支配下となる。
16世紀をすぎると、八重山ではめまぐるしく人口が増加した。
また、この時期、マラリア病が発生しはじめ、八重山全土に広がっていく。
特に、石垣島北部と西表島全土はマラリア病の地とされていく。
■西塘による八重山統治
西塘は、この時代、首里王府支配下のもと八重山を統治した。
<西塘>
人物
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説明
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西塘
<竹富大首里大屋子>
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(にしとう)
(生誕不明〜1550年)
-竹富大首里大屋子になるまで-
西塘(にしとう)は、オヤケアカハチの時代に竹富島に生まれた。1500年、オヤケアカハチの乱のときには、官軍の連合艦隊が石垣島沖へ押し寄せた。この時、竹富島の人々は海上に、官軍の船が姿を現すのを見て、驚き逃げまわったという。
西塘はこのとき、どちらに組したのかはわからない。
すでに10代の中頃に達していたと思われる西塘は、非凡な才能を首里軍大里に見込まれ、首里へと連行される。
首里へ連行された西塘は、西塘は首里の先進文化を学ぶ。やがて、石工技術者として才能を発揮し、その名を知られるようになる。そうして、1519年に、園比屋武御嶽と弁カ嶽の立派な石門を建造し、その功績を首里の尚真王に認められる。
そうして、1524年、竹富島に帰郷。首里王府から竹富大首里大屋子(八重山頭職)任ぜられ、竹富島に帰ることとなる。
-竹富大首里大屋子になってから-
西塘は、蔵元を竹富島に創建して八重山の行政を統括した。竹富島を八重山行政の中心地にしたのは、それまでの八重山の行政は、宮古の仲宗根一族の、祭金、三男知利真良が、竹富島のトウールングック(豊見親城)で行政を行っていためだ。
西塘は、蔵元をトウールングックから、カイジ浜に移し、新たな政治を行った。蔵元を中心とする行政機構を整備した。
まだ、首里王府に反発するものが根強く残っていたものの、西塘は、首里王府の八重山統治を安定させ、八重山の文化を琉球化させていく。
当時の竹富島は八重山の島々から絶えず役人たちが往来し、物資の集散地としてとても賑わったという。
その後、1543年には、竹富島は不便なことから、蔵元を石垣島に移した。
西塘は1550年、石垣島にて亡くなったとされている。
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<西塘御嶽>
西塘御嶽は、西塘を祀ったもの
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<カイジ浜>
蔵元の目の前にあったこの浜は、
西塘の時代、八重山の主要港として
船が頻繁に出入りしていた
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■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。
寄人政策で強制移住が行われたが、うまくいかなかった原因もマラリア感染による被害という原因が大きい。
マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。
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