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―薩摩藩支配下―
17世紀〜19世紀
■薩摩藩支配下時代
琉球王国が薩摩藩の支配下となった。八重山は二重の従属を強いられる。人頭税に、災害や飢饉により、人々の生活は苦しかった。また穀物を確保するために、寄人政策により人々は強制移住をしいられることになる。
■行政の支配
1628年、八重山の25カ村を3間切(大浜・石垣・宮良) に行政区分され、検地が行われた。1632年には、首里王府の在番奉行がおかれ、1637年には人頭税が始まった。そうして1641年には薩摩藩も直接八重山へ在番をおき、大和在番制度が始まった。
1637年〜1903年
■人頭税
1637年、世に名高い悪税『人頭税』が、八重山と宮古だけに、施行された。人頭税は作物の状況に関係なく、人の数の頭割で徴収されるというもの。人頭税によって八重山の人々は重い年貢に苦しむことになる。
労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額はたまるばかりであったという。
その後、20年の間に、4回人口調査を行い、1659年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。
17世紀〜19世紀
■寄人政策と住民の強制移住
首里王府は役人を通じて、住民たちを監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を行った。この開墾政策は、寄人政策と呼ばれ、人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地へ強制移住させて開墾に当たらせる政策のこと。
寄人政策は、親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、開墾によるつらい労働をともない、移住地がマラリア地帯であったために、命を亡くした人も少なくない。
<人口と移住>
年
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当時の人口
(人)
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移住人数
(人)
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移住元 |
移住先
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1651年
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209
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-
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竹富島
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-
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1711年
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1071
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-
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竹富島
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石垣島伊原間
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1711年
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1071
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-
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竹富島
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西表島仲間村
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1734年
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-
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74
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竹富島
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石垣島屋良部村
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1737年
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1072
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-
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竹富島
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-
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1738年
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1080
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150
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竹富島
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石垣島椁海村
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1753年
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1014
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200
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竹富島
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石垣島安良村
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1771年
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1129
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528
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竹富島
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石垣島富崎村
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※1771年は、明和の大津波の復興事業による。
※富崎村への移住は、1785年竹富村から移住させた冨埼村は土地が痩せてよくないので、盛山に再移転させる(参遣状・八重山年来記)。
■マザカイ節
強制移住による悲しい物語が、民謡『マザカイ節』として語り継がれている。
「マザカイ」とは竹富島の「真栄」という人。マザカイは竹富島玻座間村で生まれました。19歳で分家し、小山家の祖となり、その後、西表島仲間村に移住したが、その恋人が寄人政策によって竹富と西表に引き裂かれた悲劇を詠った。マザカイは山野や荒地を開拓し田畑にしたと伝えられている。
■通耕
通耕とは、船に乗って耕地まで行く出作のこと。
珊瑚礁の島、島が石灰岩質である竹富島は稲作を行うことが困難であった。竹富島の人々は石垣島や、西表島に通耕した。
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<西桟橋>
稲作は、西表島へ
西表島に行くには、西桟橋を使っていた
西桟橋は1972年まで使われていた
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■武富島
これまでは「竹富島」と表記されていた。しかし、1729年に琉球王府が「竹」の文字を禁止すると「武富島」と表記されるようになる。そうして、明治20年代以降は再び「竹富島」と表記されようになった。
1771年
■明和の大津波
1771年、八重山地震発生、明和の大津波がおきた。八重山での死者は9400人で、八重山での人口の約1/3が死亡した。
ただ、竹富島は、地形が平な島であるにもかかわらず、東方海上にのびる厚い珊瑚礁によって、竹富島では波は小さかった。
それゆえ、竹富島での被害も少なく、流出家屋もなく、島内での死者はなかった。公務で石垣島へ出張中の竹富出身者27名で、津波の起こった、3月10日は年貢を納める時期で、たまたま石垣島に行っていたようだ。
<明和の大津波の被害>
島名
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死者行方不明者
(人)
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人口(人)
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津波前
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津波後
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減少率
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石垣島
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8,480
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17,549
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9,069
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48.3%
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竹富島
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27
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1,156
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1,129
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2.3%
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小浜島
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9
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900
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891
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1.0%
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黒島
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293
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1,195
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902
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24.5%
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新城島
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205
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554
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349
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37.0%
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鳩間島
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2
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489
|
487
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0.4%
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西表島
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290
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4,413
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4,123
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6.6%
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波照間島
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14
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1,528
|
1,514
|
0.9%
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与那国島
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0
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972
|
972
|
0.0%
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合計
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9,408
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29,397
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19,989
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32.0%
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※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用
ただし、竹富島の人たちの災難は震災後にあった。
政府の震災復興により、竹富島から富崎へ523名の人が強制移住させられた。
さらに移住させられた人々は、1785年に冨埼は土地が痩せてよくないということで石垣島盛山に移住地を変えら、散々なものだった。
■村の復興
19世紀になると、疲弊した八重山の島々の、村落の功労者に対して、首里王府が表彰を行っている。
竹富島では大山筑登之親雲上と、与那国仁屋が賞されている。
・1821 世持職95歳の大山筑登之親雲上に勢頭座敷位を授ける(球陽)。
・1824大山筑登之親雲上の母「加伊志」の99歳の長命を褒嘉する(球陽)。
・1826大山仁屋に筑登之座敷位を賞賜する(球陽)
・1841与那国仁屋に筑登之座敷位を賞賜する(球陽)。
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