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概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

近代

戦争とマラリア

現代

歴史年表

―琉球王府支配下―




16世紀〜

■琉球王国支配下時代
アカハチの乱の後、八重山は琉球王国の支配下となる。
16世紀をすぎると、八重山ではめまぐるしく人口が増加した。
また、この時期、マラリア病が発生しはじめ、八重山全土に広がっていく。



■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。
寄人政策で強制移住が行われたが、うまくいかなかった原因もマラリア感染による被害という原因が大きい。

マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。





■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。

マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。



17世紀〜19世紀
■薩摩藩支配下時代

琉球王国が薩摩藩の支配下となった。八重山は二重の従属を強いられる。人頭税に、災害や飢饉により、人々の生活は苦しかった。また穀物を確保するために、寄人政策により人々は強制移住をしいられることになる。

■行政の支配
1628年、八重山の25カ村を3間切(大浜・石垣・宮良) に行政区分され、検地が行われた。1632年には、首里王府の在番奉行がおかれ、1637年には人頭税が始まった。そうして1641年には薩摩藩も直接八重山へ在番をおき、大和在番制度が始まった。


1637年〜1903年
■人頭税
1637年
1637年、世に名高い悪税『人頭税』が、八重山と宮古だけに、施行された。人頭税は作物の状況に関係なく、人の数の頭割で徴収されるというもの。人頭税によって八重山の人々は重い年貢に苦しむことになる。
労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額はたまるばかりであったという。

その後、20年の間に、4回人口調査を行い、1659年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。



17世紀〜19世紀
■寄人政策と住民の強制移住
首里王府は役人を通じて、住民たちを監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を行った。この開墾政策は、寄人政策と呼ばれ、人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地へ強制移住させて開墾に当たらせる政策のこと。
寄人政策は、親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、開墾によるつらい労働をともない、移住地がマラリア地帯であったために、命を亡くした人も少なくない。


当時の人口
(人)

移住人数
(人)

移住元

移住先

1651年 

616

-

-

-

1713年 

-

300

波照間島

白保村

1734年 

1414

400

波照間島

南風見村

1755年 

-

280

波照間島

崎山村

1771年 

1514

413

波照間島

白保村、大浜村



■パイパティローマ(大波照間島/南波照間島)
この時代、人頭税に苦しんだ史実として、波照間島の住民たちがパイパティローマを目指したという史実がある。
1648年、波照間島の住人約40人が、厳しい人頭税に耐えかねて『大波照間島』を目指して脱走したという(八重山島年来記)。
『波照間島伝承』では、「ヤグ村」の「アカマリ」という男が、重い「人頭税」から人々を救うため、村人を引き連れ40〜50人ほどが南波照間へ脱出したという。

大波照間島と南波照間島がどの島であったはわからない。住民たちは台湾の緑島や蘭嶼島、フィリピンのルソン島などだったとの諸説もあるが定かではない。








1771年
■明和の大津波
1771年、八重山地震発生、明和の大津波がおきた。八重山での死者は9400人で、八重山での人口の約1/3が死亡した。
波照間島では、震源地との位置関係か、もしくは台地上になった地形のせいか被害は比較的少なかった。
津波の高さは5mほど、島内の死者はなく、公務で石垣島へ出張中の波照間島出身者14名が亡くなっている。津波の起こった、3月10日は年貢を納める時期で、たまたま石垣島に行っていたようだ。

島名

死者行方不明者
(人)

人口(人)

津波前

津波後

減少率

石垣島

8,480

17,549

9,069

48.3%

竹富島

27

1,156

1,129

2.3%

小浜島

9

900

891

1.0%

黒島

293

1,195

902

24.5%

新城島

205

554

349

37.0%

鳩間島

2

489

487

0.4%

西表島

290

4,413

4,123

6.6%

波照間島

14

1,528

1,514

0.9%

与那国島

0

972

972

0.0%

合計

9,408

29,397

19,989

32.0%

※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用


■津波後の移住
石垣島再興のために、波照間島からは、多くの人が白保村と大浜村に413人が強制移住させられている。
413人は、波照間島の当時の人口の1/3〜1/4にもなる。
石垣島大浜の「大石御嶽」は、その移住させられた村人が、故郷・波照間島を偲び、波照間島の「大石御嶽」に因んで名付けた御嶽とされている。


■政治犯の流刑地
歴史上、波照間島は琉球王府の政治犯の流刑地であった。
政治犯の流刑の場合、高い身分のものが、流刑される例が多い。従って、その様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられる。波照間島も流刑された人によって影響を受けたものと思われる。流刑者は稲福里之子、宮良親雲上永将の子孫などが流刑されている。近代では、石炭伽那事件で有名な大浜伽那が流刑されている。








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