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概要と先史時代

群勇たちの対峠

琉球王府支配下

近代

戦争とマラリア

現代

歴史年表

―歴史年表―




■波照間島の歴史年表

時代

出来事

先史時代

紀元前1700年



紀元前500年



有土器時代
(下田原貝塚の時代)


無土器時代
(大浜貝塚の時代)

グスク時代

13世紀





15世紀後半

1500年

この頃、集落をまとめる按司が現れる。
(この時代の、下田原城遺跡、伝マシュク村遺跡、伝ヤグ村遺跡、伝シムス村遺跡が見つかっている)




オヤケアカハチ、長田大主、シシカトなどの群勇が波照間島で生まれる

オヤケアカハチの乱(八重山征伐)

琉球王国支配下

1500年


1524年


1602年

琉球王府の支配下となる。
八重山では仲宗根豊見親の次男、祭金が八重山頭となった。

首里王府から送られた西塘が、竹富大首里八重山大屋子となる。
実質的に、八重山も琉球の支配下になった。

八重山で疱瘡発生。死者多数。

琉球王国支配下
(薩摩藩勢力下)

1609年

1611年

1625年


1637年

1648年

1667年

1713年

1734年

1755年


1771年



1776年



1834年






薩摩藩が琉球に侵攻。琉球は薩摩の支配国となる。

薩摩による八重山検知

石垣島、桴海村津波に襲われ全村流潰(八重山島年来記)


宮古・八重山に人頭税が科せられる。

人頭税に苦しんだ波照間島の住人40人が、『大波照間島』を目指して脱出

石垣島で大地震(八重山島年来記)

波照間島から石垣島白保村へ300人が強制移住

波照間島から西表島南風見村へ400人が強制移住

波照間島から西表島崎山村へ280人が強制移住


明和の大津波

復興計画により、波照間島から白保村、大浜村へ413人が強制移住

八重山で飢餓と疫病が3年も続く



八重山で、風疹で636人死亡、疫病で1996人死亡


近代
(明治〜)

1872年

1872年

1879年

1894年

1903年

1908年

1914年

1910年〜
1961年頃

1933年〜
1940年頃


琉球処分により琉球王国が琉球藩となる。

石炭伽那事件の大浜伽那が波照間島に流刑された

廃藩置県により琉球藩から沖縄県に。八重山も沖縄の一部となる。

波照間島に分教場ができる

人頭税廃止

八重山諸島全域で1村に

竹富村ができる。波照間島も竹富村町に所属

波照間島は、カツオ漁で栄える


波照間島は、燐鉱の採掘で栄える



太平洋戦争

1941年

1944年



1945年





第二次世界大戦が勃発

日本軍が八重山の軍事強化。13000人の日本軍が常駐することとなる。

十・十空襲、石垣島の軍事飛行場などが被害を受ける。

正月早々激しい空襲がおこる。

4月頃から、波照間住民全員が西表島南風見田などに強制移住させられる

7月末から、波照間島の住民が帰島

6月23日沖縄終戦、8月15日日本終戦

波照間島では、ほぼ全員がマラリアに罹患し、全住民の1/3が亡くなった。


琉球政府

1946年

1947年

1952年

1958年

1961年


アメリカ軍政府は沖縄民政府を作り知事を任命。

竹富村は竹富町になった

沖縄民政府は琉球政府となる。八重山は八重山庁となった。

Bドル発行

マラリア撲滅


現代

1972年


1976年

1978年

1981年

1988年

2007年

2009年

沖縄が日本復帰
波照間便の定期船の就航

波照間空港が開港。波照間-石垣便の定期便が就航

7月30日、車が左側通行になった。

山下軍曹こと酒井喜代輔が戦後3度目の来島。浦仲浩公民館長が抗議文をたたきつける。

識名校長が亡くなる

空路、波照間-石垣便の定期便が廃止

波照間島をロケ地とした連続ドラマ『本日も晴れ、異常なし』が放映











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