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―戦争とマラリア―
1941年〜1945年
■太平洋戦争
八重山では上陸戦は行われなかった。しかし空爆による被害が多くあり、波照間島は1945年1月に入ってから他の島と同様、空爆が激しくなる。
ただ、波照間島で特筆することは、米軍の攻撃による被害よりも、日本軍の無謀な計画の強制疎開による、戦争マラリアによる被害があまりにも大きかった。
1945年
■戦争マラリア
戦争時の八重山の島々の避難地は、西表島や石垣島などマラリア有病地であったため、マラリアが避難住民の間に爆発的に流行した。
波照間島は全住民がマラリアの有病地の西表島南部に強制疎開させられ、マラリアにより多くの被害を受け、多くの人が死亡している。
波照間島の場合、疎開というのはタテマエで、日本軍の食糧調達のためだったともいわれている。
■波照間島の強制疎開
1945年2月。山下虎雄という男が、波照間島へ代用教員として赴任してきた。全生徒250名、4年生の担任となった。
当初 山下は、島の人たちから人望が厚く、慕われていた。
しかし、山下虎雄は実は偽名(本名:酒井喜代輔)で、陸軍中野学校・離島残置要員特務兵出身、日本軍秘密工作員であり、波照間島の人たちを悲劇に追いやった人物である。
1945年3月、山下軍曹の行動は突如一変した。突如軍服を着て、波照間島民に西表島への疎開を命じる。
住民たちはマラリア地区への移住を反対したが、日本刀をふりかざし、住民たちをおびえさせ、強制的に住民たちを疎開させて行く。
疎開は1945年3月末に始まる。住民は避難船で西表の大原に到着。そこからは歩いて南風見田までの約8kmを移動することとなる。
掘立小屋を建てて、西表島の南風見田での生活が始まる。
波照間島の牛馬800頭、豚400頭、ヤギ1,700頭、ニワトリ5,000羽は米軍の食糧になるからと処分させられたが、家畜は石垣島へ搬送され、日本軍の食糧になったと言われる。
4月中には全島民が南風見田へ移住した。
しかし、食料は尽きてしまい、住民たちは困窮を深めて行く。
5月頃にはマラリアの感染源の蚊が発生し、住民たちはマラリアに罹患して行く。7月にはマラリアで死亡する人が増えて行く。
山下軍曹に帰島を願い出たが聞き入れてもらえなかった。一部の人は由布島に避難した。
(山下軍曹は南風見田に移動させた後は、マラリア被害のない由布島に移動している。山下軍曹はマラリアの薬を持っていて、自分と極一部の人間には与えていた。)
そうして、波照間国民学校で校長であった識名信升が、密かに石垣島に渡り八重山諸島守備隊の宮崎旅団長に惨状を直訴しやっとのことで帰島の許可を得ることとなる。
山下軍曹は、許可が出た後も、帰島に反対していたという。
山下軍曹の反対を押し切り、1945年7月30日、識名校長たちは住民たちをつれて、島へ帰って行く。
この時、マラリアによる死者は70人。2艘の小船で運搬していたため帰島は8月末まで時間を要した。
帰島後も住民たちの住民たちの悲劇は続く。住民たちは波照間島に戻ったが、農地は4ヶ月放置されたままだったので荒れていた。
住民たちは開墾する力も残っておらず、全ての家畜は処分されいて、食糧難に苦んだ。
しかも西表島からマラリアを持ち込んでおり、疲労や栄養不足も重なり、島のほぼ全員がマラリアに罹患した。マラリアによる死亡者は増え続ける。一家全員が死亡したり、死亡しても葬る人がいなくて、埋葬すら出来ず、防空壕に運び込まれた遺体もあったという。
ソテツを食べ飢えをしのいだとも言われるが、ソテツの毒により無くなった人もいるという。
結果的に、波照間島のほぼ全員がマラリアに罹患し、全住民の1/3が亡くなってしまうという大きな被害になったのだ。
そうして、1946年1月、石垣島の旧旅団司令部より救援隊到着し、わずかな食糧や薬が配給されはじめ、ようやくマラリアは沈静化に向っていく。
<八重山のマラリア状況(1945年における)>
場所
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人口
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罹患数
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死亡者数
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石垣島
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19,050
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10,060
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2,496
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竹富島
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1,430
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77
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7
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小浜島
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1,079
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862
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124
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黒島
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1,345
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128
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19
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新城島
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255
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144
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24
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波照間島
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1,590
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1,587
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477
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鳩間島
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560
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526
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59
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西表島
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1,627
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327
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75
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与那国島
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4,745
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3,171
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366
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八重山全体
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31,681
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16,882
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3,647
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■『忘勿石 ハテルマ シキナ』
南風見田の浜に、忘勿石(わすれないし)がある。
これは、疎開命令の解除を受けたとき、識名校長が刻んだもので、悲惨な歴史を忘れまいとして、ここの岩に文字を刻んだ。
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<忘勿石の碑>
識名校長が、『ハテルマ シキナ』を
刻んだ場所
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<南風見田の浜>
波照間の人たちは、この浜から
遠く望郷の波照間島を見つめてた。
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■戦争マラリアその後
山下軍曹と、識名校長の戦後。山下軍曹の行動は戦後も理解しがたいものだった。
人物
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説明
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山下軍曹
(本名:酒井喜代輔)
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山下軍曹こと、本名は酒井喜代輔(または酒井清)。
酒井喜代輔は人知れず1945年10月頃、島を出て行った。酒井喜代輔は「軍命だった」と証言しており、戦後も処罰もされていない。謀略的作戦を住民に対して行った反省は無かったようだ。酒井が本当に悪人であったのか、命令に忠実に行動したのかは、現在も明らかにされていない。
戦後、酒井喜代輔は、3度、波照間島を訪れる。何故3度も訪れたのか酒井の真意は不明だ。
三度目の1981年8月7日の来島時には、浦仲浩公民館長が住民代表として抗議文をたたきつけた。
簡単に言うと・・・「もう来るな!」と。。。
1974年 刊行された「陸軍中野学校3」には、酒井の意図が記載されている。
― 石垣島司令部より命令があり、米軍が波照間島に上陸する見込みのため「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、井戸を埋没して使用不能にせよ」とのことだった。酒井は西表島への疎開は困難であることを、何度も司令部に訴えたが、司令部に聞き入れてもらえなかった。したがって疎開を受け入れない住民に対しては、は軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。 ――― とある。
このことに対して、住民は酒井を美化しているものとして、抗議している。本当に、軍の命だけなら、1945年8月15日の終戦を住民に知らせず、住民の帰島を反対し続けたのは何故だったのだろう。
酒井喜代輔は、戦後、滋賀県在住し、 機会メーカー会長などをへて、1997年死去した。
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識名校長
(識名信升)
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識名校長(識名信升)は、住民たちが南風見田へ疎開中、忘勿石のある南風見田の浜で、子供たちに青空学級を開いている。
西表島南風見田に強制疎開させられた波照間国民学校の児童323人中、66人の児童をマラリアで亡くしたことに深く悲しんだ。
識名校長は波照間島住民を酒井から救い出した英雄ではあるが、校長をやっていただけに、深く責任を感じていた。
後年、識名校長は『忘勿石 ハテルマ シキナ』の刻んだ真意を聞かれても「すまなかった」と詫びるだけだったという。
識名校長は、酒井喜代輔より早い1988年に亡くなっている。
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