―概要と先史時代―
波照間島は古くは朝鮮などから『ハティローマ』と呼ばれていた。
最南端という最果てでありながらも、八重山でもかなり古い遺跡が見つかっており、戦いや争いの伝説も多く、早くから文化が開けていたと思われる。
琉球王府に統治されてからは波照間島も他の八重山の島々とと同じような歴史をたどる。人頭税に苦しめられ、寄人政策で多くの人が
西表島や石垣島に移住させられた。
そうして時代は進んで、太平洋戦争のときには、戦争マラリアという悲しい悲劇があった。
〜12世紀
■先史時代
波照間島では、波照間島ではかなり早い時代古くから人が住んでいたと考えられる。下田原貝塚は八重山で一番古く、約3700年前のものといわれる。古い有土器時代の遺跡や、その後の無土器時代の遺跡、グスク時代の遺跡がみつかっており、先史時代の波照間島をさぐることができる。
しかし、3700年前の下田原貝塚から、大浜貝塚(4世紀〜12世紀)までの間を埋める遺跡が見つかっていない。
4世紀までの2200年間が島がどのような状態であったかは、全くの不明である。
<波照間島の遺跡や貝塚>
遺跡名
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時代 |
時期 |
下田原貝塚
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有土器時代 |
3700年前
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大浜貝塚
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無土器時代 |
4世紀〜12世紀
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■下田原貝塚
下田原貝塚に関しては、イノシシの骨が多く見つかっている。波照間島にはイノシシはいない。また陶器に関しては西表島の土表で作られていることがわかっており、
下田原貝塚に住んでいた人は、西表島から移住してきたのではないかとも言われている。
八重山の歴史-先史時代-
12世紀〜15世紀
■グスク時代
人々は共同生活行うようになり、集団の支配者が現れ出した。土器や鉄器も使い始めた。支配者は按司(豪族)といういわゆる豪族のようなもの。
けれど、八重山では一島一首長のような政治的な支配者はまだ存在しなかった。争いも少なく穏やかな日々が続いていた。
波照間島では、グスク跡やグスク時代の生活がわかるグスク時代の遺跡が多くみつかっている。
そうして、12世紀〜15世紀の間、共同社会の中で勢力のある按司が登場し始めたとされる。
<グスク時代の遺跡>
遺跡名
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時代
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時期
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下田原城遺跡
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グスク時代
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13世紀〜15世紀
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伝マシュク村跡遺跡
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グスク時代
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13世紀〜15世紀
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伝ヤグ村跡遺跡 |
グスク時代
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13世紀〜15世紀
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伝シムス村遺跡 |
グスク時代
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13世紀〜15世紀
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<下田原城跡>
今は草むら。
城跡のすぐ近くの場所が、
下田原貝塚だ。
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<大泊浜>
下田原貝塚や大泊貝塚の前に広がる
この浜は、
古代の人が、波照間にたどりついた場所
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■グスク時代の伝説
早くから文化の開けた波照間島には、グスク時代の伝説もある。
アラプチプラとペーミシクブラとの戦いや、カンチアジマグとユナチマヤの戦い。女傑ピタプパメやヤマダプパメの伝説など、八重山に群勇たちが対峠する前に、戦いや首長などの多くの伝説が残っている。
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