島の散歩 島のレポート

ホーム おきなわ 島のレポート 新城島 新城島の歴史

概要と先史時代

琉球王府支配下

近代

太平洋戦争

現代

歴史年表

―概要と先史時代―



海を隔てて上地島と下地島に分かれる新城島。いつしか2つに分かれた島は『パナリ』、『パナリ島』と呼ばれた。
新城島と呼ばれるようになったのは、下地島に『アラグス』という新城島で一番大きな集落があったからだ。
新城島も他の八重山と同じような歴史をたどったと思われる。ただ、新城島は石灰岩層の地質で、耕地に適さなかった。他の島以上に、寄人政策で苦しめられた。そのため、ジュゴンの漁やパナリ焼きなど農業以外の産業にたよってきたところがある。
太平洋戦争後は、人口が減少するばかりで、島の歴史を語る人も少くなくなっている。



〜15世紀
■先史時代
新城島には、古琉球(グスク時代)以降の遺跡は多々存在するが、有土器時代、無土器時代の遺跡は見つかっていない。いつの時代から人が住み始めたのは不明である。
西表島や波照間島など八重山の島々と同じように、南方の民族がたどりついて、島は始まったものとも推測できるが、定かではない。

八重山の歴史-先史時代-


■朝鮮漂流民による新城島
朝鮮の『李朝実録』という膨大な史料の中に『朝鮮漂流民の八重山見聞録』がある。
1477年、朝鮮漂流民が与那国島に漂着し、その後、八重山の島々へ護送され、済州島に帰還している。その時、新城島に寄った時に、新城島のことを次のように語っている。

新城島は、波照間島の次に『勃乃伊島(ほつのいじま?)』に護送されたとあり、これが新城島の事とみられる。漂流民らによると波照間島からは一昼夜で着き、島は平坦で2日ほどで一周できた。民家は40戸余で、男女ともに青い玉を腕輪や足輪としていた。また、キビやアワ、麦が栽培されていたが、米は西表島で入手していたという。


1500年頃
■オヤケアカハチにまつわる伝説
グスク時代の末期、八重山の一大事『オヤケアカハチの乱』。オヤケアカハチの乱で新城島の人たちがどのように関与していたかは不明だ。
しかし、一説によると、オヤケアカハチのルーツは、波照間島の女性が、石垣島に反物を貢ために、途中新城島によったときに、オランダ人に襲われ、出来た子供だという伝説がある。

八重山の歴史-オヤケアカハチの乱-










概要と先史時代

琉球王府支配下

近代

太平洋戦争

現代

歴史年表

サイトマップ 更新履歴 リンク リンクについて 問い合わせ