―近代―
1867年〜1941年
■近代
■大日本帝国への琉球処分
琉球は沖縄となり、八重山も沖縄の一部として日本になった。
1867年、江戸幕府から日本政府へ大政奉還。琉球は、5年後1872年に琉球藩として日本になり、琉球王 尚泰王は、琉球藩王になった。そうして尚泰王は華族になり、1879年、廃藩置県により琉球は沖縄県となった。
新城島も八重山の島と同じように近代の道を歩んでいく。
■この時代の新城島
新城島は、黒島の行政区分に属した。耕地の乏しい新城島の島民は、古い時代と同じく西表島の南風見村に船で通って耕作を行った。
1893年に八重山列島を訪れた笹森儀助は、南風見村の東の海岸に新城島や黒島の農民の小屋が数軒あり、数十人がいると記録している。(南風見村は1920年に廃村)
1910年頃からは、新城島もカツオ漁が盛んとなる。カツオ漁は糸満などの漁師の手伝いから始まったもので、新城島でもカツオ漁の隆盛があったという。
そうして、新城島は再び人口が増え続ける。明治初期には293人だったものが、戦争前には455人にもなった。
戦争前には西表島大原への計画移住がはじまった。
1938年には下地島から移住し、1941年には上地島から移住した。この移住により新城島の人口は一挙に255人に減る。
そうして1944年には、新城島の小学校(新城国民学校下地分教所)までもが、大原地区に移転した。
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<西表島大原の集落>
東部で一番大きな大原集落は
多くの新城島の人々が移住してできた
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■明治以降の市町村
新城島の市町村への所属は以下となる。1896年、石垣間切り、大浜間切り、宮良間切り、与那国島の3間切り1島で八重山郡が発足。八重山列島の時代に伴い、以下のように推移した。
◇1896年(明治29年)
八重山郡 石垣間切り
(石垣間切り・・・石垣村、新川村、名蔵村、崎枝村、川平村、桴海村(ふかい)、竹富村、仲間村、黒島村、新城村、南風見村)
※間切りに関しては、1750年以降から同じ。
◇1908年(明治4年)
・八重山村(八重山諸島全域)
◇1914年(大正3年)以降
・竹富村(現在の竹富町と同じ領域)
※竹富村の町への昇格は1947年
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