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概要と先史時代

琉球王府支配下

近代

太平洋戦争

現代

歴史年表

―琉球王府支配下―




16世紀前半〜

アカハチの乱の後、八重山は琉球王国の支配下となる。
16世紀をすぎると、八重山ではめまぐるしく人口が増加した。

17初頭に琉球王国が薩摩藩の支配下となってから、検地がなども行われ、人頭税も課税された。災害や飢饉もたびたび起こり、耕作物を確保するため、八重山内で移住が頻繁に行われた。


■高嶺首里大屋子
1628年、高嶺方昌が黒島の役人として、初代 黒島首里大屋子に着任した。
高嶺方昌黒島に初めて牛を入れ、牛耕によって農業振興を図った人物といわれている。
現在の牛の黒島の始まりは、この頃からだ。




■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。
寄人政策で強制移住が行われたが、うまくいかなかった原因もマラリア感染による被害という原因が大きい。

マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。





17世紀前半〜

■薩摩藩支配下時代
琉球王国が薩摩藩の支配下となった。八重山は二重の従属を強いられる。人頭税に、災害や飢饉により、人々の生活は苦しかった。また穀物を確保するために、寄人政策により人々は強制移住をしいられることになる。

■行政の支配
1628年、八重山の25カ村を3間切(大浜・石垣・宮良) に行政区分され、検地が行われた。1632年には、首里王府の在番奉行がおかれ、1637年には人頭税が始まった。そうして1641年には薩摩藩も直接八重山へ在番をおき、大和在番制度が始まった。
黒島では八重山の総元締め蔵元の末端期間である番所が置かれていた。

番所跡
今は石垣が残るだけ







1637年〜1903年
1637年、世に名高い悪税『人頭税』が、八重山と宮古だけに、施行された。人頭税は作物の状況に関係なく、人の数の頭割で徴収されるというもの。人頭税によって八重山の人々は重い年貢に苦しむことになる。
労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額はたまるばかりであったという。

その後、20年の間に、4回人口調査を行い、1659年の人口調査にもとづいて定額人頭税となった。




17世紀〜19世紀
■寄人政策と住民の強制移住
首里王府は役人を通じて、住民たちを監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を行った。この開墾政策は、寄人政策と呼ばれ、人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地へ強制移住させて開墾に当たらせる政策のこと。
寄人政策は、親子・兄弟・夫婦・恋人たちを引き裂いたばかりでなく、開墾によるつらい労働をともない、移住地がマラリア地帯であったために、命を亡くした人も少なくない。

■住民の移動
1692年には、人口が、1,083人にもなった黒島は特に移住の多かった島。
人口の割に耕地が少なかった黒島は、人口増加により移住せざるおえなかった。

<黒島の人口移動>

当時の人口
(人)

移住人数
(人)

移住元

移住先

1651年 

581

-

-

-

1692年 

1,083

220

黒島

石垣島平得 

1700年 

-

60

黒島保里村

鳩間島

1703年 

-

150

黒島保里村

鳩間島

1711年 

-

-

黒島

石垣島平久保

1732年 

1,048

400

黒島宮里

石垣島野底村 

1732年 

-

-

黒島

石垣島桃里村

1771年 

902

167

黒島東筋

石垣島真栄村

〃 

313

黒島仲本

石垣島伊原間 

1857年 

1,550

200

黒島

石垣島名蔵村 

〃 

50

黒島

石垣島桴海村 

〃 

150

黒島

西表島上原村 

※1771年は、明和の大津波の復興事業による。      


■カニムイとマーぺの物語
(1732年の野底村に移住にかかわる民話)

恋仲にあったカニムイ(青年)とマーぺ(娘)。ある日首里の役人がきて、マーぺの住んでいる地区は、(強制移住で、)石垣島の野底村に行くことになった。カニムイは黒島に残り、マーぺとカニムイは別れることになった。
野底村に移住したマーぺーの家族など400名は、密林の中へ入り、木を切り、家を建て、荒れ果てた耕地を耕した。
ただ、野底村からは野底岳の影にかくれて、黒島は見えなかった。
マーぺは野底山を見ながら、いつかカニムイが黒島から迎えに来てくれることを信じて待ち続けたという。

夏になって風土病のマラリアにかかる人が増え始めた。マラリアにかかった人は高熱と寒気が繰り返し襲い、だんだんとやせ衰え死んでいった。
そうしてついに、マーぺもマラリアにかかってしまった。
マーぺは、幼いころカニムイと祭りの日に過ごした思い出され、いてもたってもいられず、村を飛び出した。
「あの野底山に登れば黒島がみえる」と言って、マーぺは熱で震える体を抑えながら、転んでは起きて、草にしがみつきながら、野底山を登って行った。
険しい山をやっと登りつめ、マーぺは野底山の頂上にたった。しかし、目の前に現れた景観は、沖縄最高棒の於茂登岳が立ちはだかり、黒島の島影すら見えなかった。マーぺは力尽き、そのまましゃがみこみ、ただただ祈り続けたという。

翌日、村の人がマーぺを探しに野底山の頂上まで行った。しかし、マーぺはいなかった。そこには、黒島のほうに向いて祈っているような不思議な石があった。村の人はマーぺを弔い、その石の近くに松を植えて帰った。

その後、その松は、高く伸び、黒島のほうへ枝を伸ばした。その松は殿原松と呼ばれている。
そうして野底山は、『野底山マーぺ』と呼ばれるようになったという。

■通耕
通耕とは、船に乗って耕地まで行く出作のこと。
黒島の住民は石垣島の平得や野底、平久保などに通耕した。









1771年

■明和の大津波
1771年4月24日、大きな地震のあと、明和の大津波が発生。津波は、3度もおし寄せ、多数の人を呑み込んだ。
石垣島宮良では最大の波の高さが85mにもなったという。宮古八重山で約12,000人ほどの人がなくなった。
平らな島、黒島は波の高さは5mほどもあった。波をかぶり、被害は大きく、293人の方がなくなっている。
また災害後、復興事業により、480人の人が石垣島へ移住させられた。

<明和の大津波の被害>

島名

死者行方不明者
(人)

人口(人)

津波前

津波後

減少率

石垣島

8,480

17,549

9,069

48.3%

竹富島

27

1,156

1,129

2.3%

小浜島

9

900

891

1.0%

黒島

293

1,195

902

24.5%

新城島

205

554

349

37.0%

鳩間島

2

489

487

0.4%

西表島

290

4,413

4,123

6.6%

波照間島

14

1,528

1,514

0.9%

与那国島

0

972

972

0.0%

合計

9,408

29,397

19,989

32.0%

※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用



■黒島の牧場にある岩
黒島の牧場で、時々みかける大岩は、明和の大津波により、運び込まれたものだという。現在は岩から木々が生えていて、景観に溶け込んでいる。




■産業と文化

■造船の文化
八重山では、黒島で船りが盛んだった。造った船は船浦御嶽で祈願され、出港した。しかし、材料となる木材の積み出しが大変なことから、木材の調達先でもある西表島に造船所をつくることになる。1738年西表島東部の古見に、1748年、西表島北部の船浦に新たに造船所が創設されている。そうしてそれ以降黒島の人は西表島で船作りを始めたのだ。

船浦御嶽
船が完成すると、
航海の祈願を宮里村の船浦御嶽
でやっていた。




■黒島の文化
『黒島口説』(くるしまくどぅち)
宮良孫賢(1790-1849)が、黒島首里大屋子に着任時(1831年〜1832年)に黒島口説をつくった。黒島口説とは歌のこと。
その後、1887年に来島した勤王流二代目師匠の諸見里秀思が、東筋村の結願祭での奉納芸能として「黒島口説」を創作し、初めて演じられている。
現在、黒島の中で黒島口説を継承しているのが東筋の集落で、
黒島の三大イベントひとつ、『結願祭』で黒島口説を披露している。


■住民の表彰
19世紀になると、疲弊した八重山の島々の、村落の功労者に対して、首里王府が表彰を行っている。
黒島では、平得仁屋が賞されている。

1799   黒島村の山加利の妻、於那比は齢100歳を超え良く家族を教え導いたので琉球国王より賞される(球陽)
1826   黒島村の平得仁屋、善行により琉球国王より賞される(球陽)







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