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概要と先史時代

琉球王府支配下

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歴史年表

―琉球王府支配下―






16世紀〜
■琉球王国支配下時代
15世紀末、八重山全土の一大事、オヤケアカハチの乱があった後、八重山も琉球王国の統治下となっていく。
また、17世紀はじめには、八重山は、薩摩藩により支配された琉球王国の統治下となる。
鳩間島も他の八重山と同じような歴史を歩んでいく。
鳩間島に残る記録としては、1703年に与人、目差を置き地頭侍となっているというものがある。

■鳩間島の海賊説
鳩間島ではじめて人々を支配するようになったのは、海賊だとも言われている。鳩間島の北西部にある名所『武士の家は、そのころの遺跡で、武士(ぶし)の家(やー)に住むようになってからだという。武士の家は島の北西の半島の突端に要塞風に石垣を積みあげたもので、鉄砲を撃つための銃眼のような穴や、海を通る船に合図するために旗を 立てる石もあったという。
そのころは武士の家の海賊が鳩間島を根拠地にして各地と交易しながら島を支配していたといわれる。

■有史に残る鳩間島
鳩間島の歴史上最初の記載があるのは、正保国絵図(1651年)で、『こみ間切之内鳩間( はとま)嶋 人居有、嶋廻廿弐町』とみえ、対岸西表島鬚川(ぴない)村に至る船路に『ひけ川村より鳩間(はとま)嶋迄海上三里半』と記されている。



■マラリア病
(1530年頃〜1961年)
八重山では、この頃からマラリア病が発生する。マラリア病は『1530年頃、オランダ船が中国移民を乗せてアメリカに向かう途中、移民が発病し、西表島に寄港した時以来マラリアが広がった』という説が強い。八重山では、1961年のマラリア撲滅まで苦しめられることになる。
寄人政策で強制移住が行われたが、うまくいかなかった原因もマラリア感染による被害という原因が大きい。

マラリアとは熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症で、高熱や頭痛、吐き気などの症状があり、悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡するという恐ろしい病気だ。マラリア原虫を媒介するのはハマダラカ。ハマダラカ大量発生することで、多くの人が刺され、マラリアの大量感染につながった。




1637年〜1903年
■人頭税

八重山と宮古だけに、人頭税が施行される。八重山の人にとって人頭税は重くのしかかった。八重山の島々では、労働力のすべてを貢租の生産に注いだにもかかわらず、毎年滞納額はたまるばかりであったという。



17世紀〜19世紀
■寄人政策と住民の強制移住
そうして首里王府は役人を通じて、住民たちを監督を強化するだけでなく、大規模な開墾政策を行った。この開墾政策は、寄人政策と呼ばれ、人口過剰の島々から一定数の人々を未開墾地へ強制移住させて開墾に当たらせる政策のこと。
鳩間島はまだまだ島の面積の割に、人口に余裕があり、強制移住の場所にもなった。
当初は、黒島からの人々が多く移住した。

<人口と移住>

当時の人口
(人)

移住人数
(人)

移住元

移住先

1628年 

70

-

-

-

1700年 

100

60

黒島

鳩間島

1703年 

-

150

黒島

鳩間島

1737年 

381

-

-

-

1753年 

450

-

-

-

1771年 

487

-

-

-

1873年 

100

-

-

-



■通耕
寄人政策では、八重山の島々の住民の多くの人が強制移住されたが、西表島に近い鳩間島では、船で通って耕す、『通耕』という形で、西表島の開墾をさせられた。鳩間島の人々は船浦や、西表島のクーラ川、伊武田崎一帯を開墾し、田小屋に寝泊りして水田耕作を行った。しかし、開墾によるつらい労働をともない、移住地がマラリア地帯であったために、命を亡くした人も少なくないという。

民謡『鳩間節』は、この時代のつらい状況をうたった鳩間島の人たちの歌である。
鳩間節では、離島間の対立も察することできる。船浦の開墾に成功した鳩間島の人たちに対して、失敗した西表島の上原・船浦の人たちが土地の明け渡しを要求。役人まで西表島の人に加担し、鳩間の人たちの船浦の人への憎みも歌われている。

ヒナイ御嶽
通耕ではヒナイ地区(船浦)に通っていた
鳩間島ではヒナイ御嶽が
集落のメインストリートにある

ピナイサーラの滝
鳩間の人たちはこの雄大な滝を見ながら
開墾を行った










1771年
■明和の大津波
1771年、八重山地震発生、明和の大津波がおきた。八重山での死者は9400人で、八重山での人口の約1/3が死亡した。
しかし、鳩間島では他の八重山の島々に比べて被害は少なく、死者は2人程度にとどまっている。

<明和の大津波の被害>

島名

死者行方不明者
(人)

人口(人)

津波前

津波後

減少率

石垣島

8,480

17,549

9,069

48.3%

竹富島

27

1,156

1,129

2.3%

小浜島

9

900

891

1.0%

黒島

293

1,195

902

24.5%

新城島

205

554

349

37.0%

鳩間島

2

489

487

0.4%

西表島

290

4,413

4,123

6.6%

波照間島

14

1,528

1,514

0.9%

与那国島

0

972

972

0.0%

合計

9,408

29,397

19,989

32.0%

※データは琉球大学理学部 中村研究室発表文より引用



■人口の激減
明和の大津波以降、潮に使った土地は痩せ、飢餓、マラリア病の流行などにより、人口は激減、1871年には人口は100名程度にもなっている。







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