北大東島・南大東島



大東諸島の歴史

大東諸島は明治のはじめまでは無人島であった。
今から100余年前に、玉置半右衛門が大東諸島(北大東島、南大東島、沖大東島)を開拓した。
荒波の断崖絶壁、鋭角のとげとげしい岩を、多分わらじでよじ登り、やっとよじ登ったと思えばビロウの生い茂るジャングル。最初の開拓者らはとても大変だっただろうと思う。
最初の船はいったいどのようにつけたのだろうか?

【無人島時代】
大東諸島は遠くパプアニューギニアのほうから地核変動して移動してきた火山島であった。
周りが断崖絶壁の険しい地形ゆえに、人がなかなかたどり着けず、長い間無人島であった。

大東諸島が発見されたのは16世紀の後半。スペインの地図に明記されている。
ただ明記されている島が本当に大東諸島の島であったかどうかは定かでない。
1820年、ロシアの艦船「ポロノジ号」が大東諸島を発見。ポロノジ諸島と命名された。これが本当の発見ではないだろうか。その後、1853年ペリーによって確認されている。


【開拓時代】
明治18年。日本は領土にするために大東諸島に5人を派遣し、国標を建て、やっと日本の領土、そして沖縄県になったのである。
しかし、その後大東諸島の開拓を希望者が幾度となく試みるが厳しい自然環境が立ちはだかり断念することとなった。
そうして明治33年、八丈島の事業家、玉置半右衛門が難航に苦しみながらも上陸に成功し、開拓が始まるのである。
上陸したとはいえ、ビロウ林を倒し、土地を開墾する。水のないこの島での開拓は本当に大変だったと想像できる。
北大東島は燐鉱石採掘、南大東島はサトウキビ農業で開発されることとなる。
八丈島だけでなく、沖縄北部、伊是名・伊平屋、久米島、その他沖縄各地から人が移住してくる。
第一次世界大戦中、燐鉱石採掘の需要が高まったときには、北大東島は大変にぎわい、台湾からの出稼ぎ労働者もいたという。
ただし、第二次世界大戦終戦までは、あくまでも民営の島であり、プランテーション的に島が統治されていた。
大東諸島を所有していた会社の移り変わりは以下のようになる。

 ○玉置商会→東洋製糖→大日本精糖


【戦争時代】
戦争時代、南大東島は空港があったためか、艦砲射撃により幾度となく攻撃された。その様相は北大東島から南大東島から煙があがっているのが良く見えたという。
一方、空港のなかった北大東島はそれほど攻撃を受けなかったいう。

【戦後】
アメリカ軍の統治により、土地は全てアメリカ軍に接収された。
そうして北大東村、南大東村が誕生。
沖大東島はアメリカ軍の射爆撃場となる。
土地は土地所有権問題を訴える住民に完全に受け渡された。
そして、アメリカ軍統治から日本に戻り、現在に至るのである。



<移住者>
 大東諸島へ移住者の出身地は、多い順に以下のようになる。
 ただし、今は血縁がまじりあって良くわからないとのことだった。

  【北大東島】     【南大東島】
   1.八丈島      1.八丈島
   2.今帰仁      2.久米島
   3.本部        3.伊是名・伊平屋
   4.恩納など     4.沖縄北部

<うふあがりの島?>
 『うふあがり』とは大きな東という意味である。
 琉球では神々が昔から、遠い『うふあがりの島』からやってくるとされていた。
 無論当時大東諸島は発見されていなかったのであるが、琉球の東の大きな島といえば、
 それは大東諸島の島々しかない。したがって大東諸島はうふあがりの島といえるのだ。




                      

           | 島の散歩情報『北大東島』 | 島の散歩情報『南大東島』 |