硫黄島にある俊寛の像。俊寛の像は、今や硫黄島のシンボルともなっている。
俊寛の像は総合開発センターの前にたっていて長浦のビーチを望むところにある。遠く港からのみることもできる。
俊寛は、平判官康頼、丹波少将成経と凶暴し、平氏打倒の陰謀をはかった。
治承元年(1117)平清盛は、鹿ケ谷荘(鹿の谷荘)での陰謀を知り、平康頼、丹波成経、俊寛を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑する。翌年、徳子の安産祈願のための大赦により、康頼、成経の2人は赦免されたが、俊寛だけは許されなかった。俊寛はその後自ら食を絶し、治承3年(1179)37歳で亡くなった。
俊寛が流刑されたという島は、長崎の伊王島や、奄美の喜界島なども俊寛が流刑された場所ではないかとの説もあるが定かではない。
しかし、平家物語で俊寛が流されたという島は鬼界島で、
『島の中には高い山があり、常時火が燃えている。そして硫黄というものがたくさんある。』
とある。
硫黄島は別名『鬼界ヶ島』で、”高い山”と”硫黄”などから、諸説の中ではもっとも有力な島だ。
けれど、近年喜界島で、俊寛の墓にあった人骨は、面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測されたので、喜界島という説も捨てられない。
俊寛は、実は島を脱出したという説もあり、歴史は謎に包まれている。
※ちなみに喜界島の俊寛の墓は[こちら]。喜界島の俊寛の銅像と、硫黄島の俊寛の銅像は、全く表情も違う。
※ちなみに、一緒に流刑されて、赦免された康頼と成経は、赦免される前に千本もの卒塔婆に和歌を書き、海をへ流したという。
その歴史が安芸宮島の厳島神社に残されている。[こちら]
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