島の散歩
沖縄の歴史

[先史時代]
・夜明け
200万〜1万年前にアジア大陸と地つづきであった琉球諸島が、約1万年ぐらい前に現在の形となったと思われる。沖縄にヒトが住み始めたのは、化石などで見れば約3万2千年前ものが発見された。これらの人類はまだ土器を知らず、石器や骨角器を使用していた。その中の港川人は現代日本人の祖先に該当すると言われている。
紀元前7世紀ごろ、沖縄は貝塚時代と呼ばれる時代で、この時代の人々は、九州から渡来してきたと考えられており、九州の縄文文化が流入し、こののち紀元10世紀ごろまでに、採集経済による貝塚時代が続く。

・按司の発生
12世紀ごろカスク時代と呼ばれる時代に移る。居住地は海岸砂丘から丘陸地に移り、輸入や鉄製品の使用、農耕、牧畜が行われていた事が裏付けられている。そして「マキョ」と呼ばれる血縁関係による集団が発生し、やがて一地域にまとまって居住するようになり、より大きな共同体を形成するようになった。
この共同体の指導者は、農耕地を求めた事から、集落間の争いが起こり、これに勝利していったのが沖縄本島の「按司」宮古諸島の「豊見親」八重山初頭で「かわら」と称される者ある。
12世紀から15世紀にかけて、按司たちがグフクと呼ばれる館を構え、さらに大きな権力への争いで結合して、14世紀ごろ、中山、北山、南山とよばれる小国家が沖縄本島に
成立した。

[中世]
・朝伝説と舜天王
按司の中の有力な豪族、尊敦は王を殺した逆臣利勇王を討ち、舜天王と称した。
この舜天王が、源為朝の子であるという伝説がある。それによると、伊豆大島に流された為朝が島を脱出し、流れ着いた所が運天港(今帰仁村)である。やがて豪族の妹と結婚し、その間にもうけた子が尊敦であるという。しかし、数年後為朝は伊豆大島に帰り、1170年、大島で討ち死にしたという。
これは古くから県内に流布した伝説であるが、事実であるかは疑わしい、これは1609年の侵攻によって薩摩藩の支配下に入った琉球が、薩摩藩の初力を緩和しようとした、政治的配慮から出たものといわれる。
舜天王は3代で絶えたが、1206年、恵組世主の子英祖天王についた。この英組王の時、伊平屋、久米慶良間の諸島および奄美大島が琉球に入京した。これは沖縄本島に整った統治機関ができたことを物語る。また、このころ本土と琉球の間に盛んに往来のあったことは明らかである。

・山上時代
英組王統は四代玉城王に及んで国内が乱れ始め、中山、北山、南山の三時代に入る。この三山時代は15世紀の初めまで続いた。この時代は戦乱のため、琉球と本土の往来も一時途絶えた。

・尚巴志の三山統一
佐敷按司であった巴志が1429年三山を統一し、明に使者を送り、尚姓を授かった。以来、琉球国王は尚氏を称するようになった。

・入貢と冊封
琉球は明国皇帝の権威を借りる事によって自らの存在を確固にするためと、入貢の形で得る貿易の利潤によって勢力の富強を図るため、中国に入貢するようになった。
中山王となった武寧に対し、1404年、明の成祖は使いを送り、武寧を冊封して中山王となし冊文を授けた。これが冊封使の始まりで、1866年まで続く。
入貢は各目であって、琉球にとって貿易が目的であった。
・第二尚氏
尚巴志王統は7代で絶え、金丸が1407年に王位に即いた。尚円王である。尚円の王統を第二尚氏と呼ぶ。第二尚氏王統が明治期に至るまでにわたって続くのである。
第二尚氏の三代尚真王の時代は、沖縄における中央集権の確立という意味で重要な意味をもった時代である。
尚真王は諸按司を首里に居住させ、武器を取り上げ、身分制度を確立した。また、神女たちを組織化し、最高位を聞得大君として、王女または追うの姉妹を任じた。さらに琉球国の勢力範囲を宮古、八重山地方にまで広げている。

・王朝文化の開花
この時代、日本や文化の影響で、独自の文化を開花させた時代でもあった。
尚真王は深く仏教を信仰し、寺を建て、仏像を造立した。また、石造建築物にもすぐれたものが多く残された。尚真王の時代は王朝文化の花咲かせた琉球王国の黄金期であったといえよう。

・海外貿易の進展
中国への入貢は一年一貢から二年一貢になり途中、戻った事もあるが、1522年以来二年一貢になり、1612年に十年一貢になるまで二年一貢が続いた。
入貢は明国の入貢が第一位を占め、第二位を安南国(ベトナム)のほぼ二倍となっている。
また貿易は、日本本土、朝鮮、中国から拡大され、各地の物産を仲介することによって莫大な利潤をあげていた。
しかしこの中継貿易もイスパニア人やポルトガル人の来航によって、貿易は中国のみとなった。

[近世]
・薩摩藩の進入
薩摩藩は琉球を支配して、対明貿易によって財政危機をしのごうとしたのである。
琉球と薩摩藩の関係は、天正年間ごろまでは友好関係が保たれていた。1591年秀吉の朝鮮出兵の祭、出兵のかわりの兵糧米の半分しか負担しなかった。これは尚寧王王府もその出費に苦しんでいたからである。
このことから首里王府と薩摩藩の関係は悪化し、財政危機という事情も加わり、薩摩藩は1609年琉球に侵入した。尚真王の時にこの武器を廃していたために、琉球国は大して戦わずに降伏した。この結果、薩摩藩は幕府から改めて琉球を領土として受けた。しかし、薩摩藩は奄美諸島だけを直轄領とし、沖縄本島以南は琉球王に下府して、琉球王国は薩摩藩の厳しい支配と監視を受ける事になった。庶民は首里王府と薩摩藩の二重の搾取の下で明治期に至るのである。

・薩摩藩の進貢貿易
薩摩藩は中国と貿易をして利潤を得たかったので、中国に対しては藩との関係を隠し、琉球国を独立国と見せかける必要があった。さらに薩摩藩は、琉球を外国と思わせる事によって幕府や他藩に威力を誇ろうとした。
この貿易で薩摩藩は莫大な利益を得たために、江戸幕府打倒の実力はこの琉球からの収奮によるとさえいわれている。

・冊封使の来琉
薩摩藩の支配下に入った琉球は、中国に対し、この関係をできるだけ隠した。これは中国との貿易で利益をあげるためで、来琉する冊封使に対しては神経を使った。琉球王は王位継続後幕府に届け出た。しかし、中国皇帝からも琉球王国に封ずるという冊を受けなければならなかった。冊封使滞在後、薩摩藩は田舎で隠れて冊封使が去ると、薩摩の役人が勢威を振るった。冊封使接待の費用の為に薩摩藩は借金をしなければならなかった。

・王府の統治機構
首里王府の職制は、薩摩藩侵攻後、江戸幕府や薩摩藩の制度を取り入れた独自の機構が作り出された。
地方の間切(現在の村)には間切番所が置かれ、その管轄下の村(現在の字)を支配した。間切を所有し、支配するのは統治頭で、按司地頭と親方地頭があった。

・文化の隆盛
薩摩藩の支配下に入ってから、琉球は新たに日本本土の文化を取り入れながら独自の文化を発達させた。様々な書物が完成している。
和文字や和歌も広まった。
琉歌の歌人には和歌和文に通じた人物がいた。組踊は本土の文化の影響で創り出された。
三線とよばれる中国からの楽器は、琉球の歌や踊りに変化をもたらした。琉球音楽の基礎は湛水親方賢忠によって創られ、発達した。その他の文化も日本と中国の文化の影響を受け、独自の文化を開花させた。

[近代]
・琉球処分
1868年、日本本土は明治新政府が成立して明治と改元され、明治4年(1871年)には廃藩置県となった。明治5年に琉球国から琉球藩となり、同12年に沖縄となった。この一連の処置を琉球処分という。
明治政府が廃藩置県後、あえて琉球藩としたのは清国への遠慮のためである。しかし、このころたまたま起きた事件を契機に台湾出兵をして、沖縄が日本領であることを清国に認めさせた。
明治8年日本政府は藩政の改革を行い、同12年親清派や王族の抵抗をおさえ、強制的に琉球藩を廃して沖縄県を置いた。

                                           参考文献等
                                     郷土資料辞典[47]沖縄県人文社


ホーム サイトマップ

おきなわの離島